2008年06月03日

ハワイ不動産の営業マン

社員の離職率が高いと言われている不動産業界。

海外不動産業界も然りです。

毎月のようにたくさんの社員が入れ替わる会社もあります。

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だから今日あなたとお話したハワイ不動産の営業マンは、つい先週入社したばかりの人だったのかもしれません。

会社にマニュアルがありますので、誰でもある程度、お話しはできるのです。


でも海外ロングステイは本来オーダーメイドなものです。

不動産ひとつにしても、コンドミニアムが合う人、戸建が合う人、ホノルルが向く人、マウイを勧めたほうが良い人、まちまちです。

お客様の大切なセカンドライフです。

やはり知識が豊富で信用の置ける営業マンやアドバイザーに相談して、お客様自身でも気付かなかった「本当に求めていたロングステイ」を見つけたいものです。


営業マンの中には、とても人当たりの良い、でも本当は「ただ口だけがうまいだけ人」いますね。(これは何も海外業界に限ったことではありませんが)

こういう人の特徴として、実は専門的な質問には答えられないというケースがあります。

その証拠に、何か質問してみてください。
決まって返ってくる答えは「いろいろな場合がありますから」です。

はぐらかされて誤魔化されてはいけません。
逆に「では、いろいろな場合とは例えばどういう場合のことでしょうか?」と聞いてみましょう。
恐らくその口のうまいだけの営業マンには答えられません。


そもそも、新人にしてもベテランにしても、営業マンは本当に自分の頭でお答えしているでしょうか?

驚かないで下さい。

海外旅行経験ですらパック旅行でハワイに1、2度行ったことがあるくらい。
専門知識どころか、そもそも英語、まったく読めない話せない、そういうハワイ不動産会社の営業マン、それが大多数、それが実態なのです。

いっそあなたの知識、少し彼らに分けて上げてください。


posted by 海外ロングステイ相談室 at 22:24 | ホノルル ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○海外ロングステイ相談室の事件簿

2008年06月05日

海外留学

海外留学

海外留学斡旋業者は現地の語学学校に生徒を送り込むことによりその語学学校からマージンを得ることがあります。いわゆる提携学校です。

だから、“君も?”、“私も?”、“あらっ、エミさんも?”、“偶然よねぇ”(偶然であるわけがありません)
ということが度々起こります。

せっかくはるばるLAまで来て、まるで日本人学校みたいなところに入ってしまったよ、そういうことになることもあります。

ついでに滞在先のレジデンスクラブ(キッチン付き長期ホテル)でも、“エミさんお隣よ、奇遇よねぇ”(そうそう奇遇はありません)、
何てことも、、、、。

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あなたの目的は何ですか?

英語を学ぶ?

異文化に触れる?

もしそうでしたら安易に決めないで下さい。


大きな斡旋業者ほど大きな受け入れ先を確保していたりします。
もちろんそのこと自体はビジネスですから、悪いことではありません。

問題は安易に留学しようとしている、あなたの姿勢にあります。
もちろん、あなたのお金であなたの人生です。
ですから、どうぞ外国でたっぷり日本人のお友達をお作り下さい。


posted by 海外ロングステイ相談室 at 23:16 | ホノルル ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○留学

2008年06月09日

その人のきっかけ #1

アメリカ在住のHさんの場合

今朝知り合いからHさんについてのニュースが入ってきましました。

どうやら先月でお店閉めたとのこと、、、、。


ここ一、二ヶ月そういううわさはあったから、やっぱり残念です。
でも別の知り合いからの話しでは、クパティーノで再開するとの話し。
だといいな。
是非そうあってほしい。

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Hさん、もう数年会っていない。

でもきっといつかまた、会いたい、必ず会えると思う。

いろいろあった。
いい思い出たくさんある。
迷惑もたくさんかけた。

思い出すたびに鼻の奥に鈍い刺激が走る。

時間は既に、かなりが経過した。

あの時のその景色はもちろんないだろう。
それでも懐かしいだけでは片付けられない、そういう思いは変わらない。



その人は30台半ばに奥さんと小学校に入ったばかりの娘と3人で、海を渡った。
どこかの会社の駐在員としてでもないし、留学ということでもない。
勤めていた会社を辞めて渡ったのだ。

誰からか呼ばれたわけではない。
自分の意思と家族の賛成だけが、その理由だ。

勤めていた会社が海外に関係していたわけでもない。語学に秀でていたわけでもない。(どちらかというとその真逆の人です)

転職暦が一度あるだけの、ごく普通のサラリーマン。でも30過ぎてすぐ課長さんになったと話していたから、もしかしたらとても優秀なサラリーマンだったのかも。
でもあっさり会社辞めて、海を渡った。しかも、奥さんとまだ小さな子供を連れて。



自分の意思だけで海を渡った人間たちにできる仕事は決まっている。言葉、ビザ、様々な障害がある人たちなのだ。
だから、必要なものは体力だけ、そういう仕事をするしかない。
そういう生活が始まる。嫌なら帰るしかない。

だから多くの人はここで挫折する。

労働時間は長くしかしその賃金は少ない。

でも不満を言うことはすなわち帰国を意味する。
より良いビザに変えなければこの日々から逃れられない。
そのためには金がいる。
働く。
しかし賃金は少なく、しかも労働環境は悪い。
悪循環だ。

抜け出すためには、そして海を渡った最初の目的を抱き続けることは、簡単なことではない。

金やビザ以外にも、言葉、食事、習慣、そういうものからも知らず知らずにストレスを受けている。

ストレスから逃れるために日本語のビデオにだけ安らぎを見出す人もいる。海外に居ながら海外を一時的に拒絶する時間を少しでも設けないと壊れそうになる。

続けていた勉強を止める人もいる。眠りたい、それが理由だ。

しかしそういう人はまだ救われている。少なくてもその体力仕事は続いているからだ。

多くの人はその仕事を続けることができない。だから早々と日本へと帰っていくことになる。


しかし、本当は早く帰ったほうがいいのだ。
長く居れば居るほど、帰ることができなくなるから。

浦島太郎は日本では通用しない。


ビデオで日本のドラマを見て、日本街のカラオケで十年前に流行った歌を歌う、でも少なくても外国に住んでいる、このことがプライドであり、心の支えだ。
慣れればこの生活は悪くない。何か楽なのだ。でも何の未来もない、、、。

話しが脱線しました。
ともかく。


Hさんは奥さんと必死で働いた。

睡眠時間を削り技術を身につけ、体力だけの仕事からの脱出を常に試みていた。お金を貯め、来るべきグリーンカード取得のための弁護士費用に備えた。

そのうち苦手の英語は娘が代わりにしてくれるようになった。

小学校一年生だった娘が大学生になる、わずか10年の間に、娘の人生は親のそれの二乗以上に変わったのだろう。

やがてその地で生まれた妹ができ、家族の絆はより強くなっていく。
頼るものは自分たちだけ、海外で暮らす家族の絆は本当に強いのだ。



Hさんのグリーンカード、約10年かかっている。
これが取れるまでのその苦労や我慢は想像にしがたい。

もう帰る場所はないのだ。

そして家族がいる。何とかしなくてはならない。
でも家族のことは決して負荷ではない。その逆だ。彼にとって家族の存在は、これが支えなのだ。


彼はグリーンカードを手にした。

そして自分の城を築いた。すごいことです。

海を渡った時には何も持っていないただのおじさんだったのに、あなたは本当にすごいです。

そしてあなたはその城をステップアップした。
評判は僕のところにも聞こえてきていましたよ。

おめでとうございます。やったね!

店閉めたそうですが、でもぜんぜん心配していません。あなたの強さ、僕はよく知っていますから。

いつか僕はそこを訪れます。そして深々とお辞儀をします。


今僕はあの時より10歳、歳取りました。もちろんあなたも同じです。
しかしあなたはきっとあの時と同じ様に、気丈にいるのでしょうね。

でももうそろそろ無理、しないでいて欲しいです。
僕のようにまでとは言わないけど、少しは他人に弱さ見せてください。





特別な人だけが海を渡るわけではありません。
海を渡った人が特別ということでもありません。
でも渡った人だけが見えるものは確かにあります。

残念ながら、これは他の人には見えません。


遅過ぎることはありません。

どこかに諦めきれない気持ちがあるのなら誰かに相談くらいはしてみましょう。


僕たちが海を渡った時より少なくとも情報はたくさんあります。
知恵もあります。
必要なのは、エイエイヤー、という一歩だけだと思います。


移住でも、海外ロングステイでも、最後はやはりエイエイヤーです。

posted by 海外ロングステイ相談室 at 22:20 | ホノルル ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月12日

その人のきっかけ #2

カリフォルニア在住のN君の場合

最初はニュージーランドに行ったんじゃなかったっけ?

18歳から19歳になろうとしていた頃、君は仲間内で一番早く海外に、しかも旅行じゃなくて住むために、行ったよね。

その時僕も何人かと一緒に君を成田まで見送りに行きました。
「いいなー」
僕にとっては生まれて初めての成田だったんだ。
ホント、僕も飛行機乗りたかったよ。




でもさ、それから10年近く経って、まさかカリフォルニアで君と再開できるとは、あの時はもちろん想像もしていなかったね。

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N君の叔母さんはニュージーランド人と結婚していて、現地で日本食レストランを経営していたのです。
第一志望の大学に落ちてモンモンとしていたN君の家へ遊びに来ていた叔母さんが「じゃあ気分転換にしばらくウチおいで。店手伝ってくれればただで泊まらせてあげる」その一言で浪人中の彼はニュージーランドに旅立ちました。
誰もがN君はすぐに帰ってくるもんだと思っていたけれど、結局今現在もアメリカ在住、かれこれ海外生活通算四半世紀にもなるんじゃないのかな。わからないものです、人生は。


ニュージーランドにはワーキングホリデーがあり、彼のような若者は短期的な職に就きながら一定期間生活をすることができます。
数ヶ月から1年くらいそこで働きながら学び、再び日本に帰っていきます。

叔母さんのレストランにも日本から渡ってきた若者が何人か働いていて、若い男女がにぎやかに団体生活しています。
さながら昔のニュージーランド版“あいのり”といった感じですかね。

N君はここで働き、恋愛し、英語を身につけます。
初めて魚を捌き、テリヤキチキンを焼き、英国風の英語を覚え、年上の彼女を作ります。


そして次の年にはオーストラリアに渡ります。
3つ年上の彼女と一緒にです。
オーストラリアへは彼の意思ではなく、彼女のもともとの計画ということで渡ったようです。
でももちろん彼に依存あるはずはありません。
そろそろ叔母さんという身内から離れたくなっていたし、違う国に渡ることにも興味もあったし、何よりそこで彼女と二人っきりで暮らせることは嬉しくないはずはないのです。


スシはまだメジャーな日本食ではない頃です。
彼はオーストラリアでひたすらテリヤキチキンをクックします。
バンバン焼いて、バンバン、タレかけます。
「テリヤキのN」と、この頃呼ばれていたそうです。

彼女はフロアーを走り回ります。
愛想を振り撒き、すっかり板に付いた英国風の発音の英語でお客さんと会話します。


仕事が終わると、二人はアパートに戻り、彼女の家族が送ってくる日本のテレビドラマのビデオを二人で見て、それからひとつベッドで眠ります。
休みの日には「地球の歩き方」を見て、それに載っているお店、観光名所を二人で訪ねます。
そういう生活を半年ほど続けていました。


やがて、彼は格安な世界一周旅行のチケットを一枚だけ買うことにします。
彼女が日本に帰ることを決めたからです。

それは彼女がこの地に来る時に交わした家族との約束の時期であったし、何よりワーキングホリデーには必ず終わりが来るものなのです。

二人が今後も一緒にいるためには、彼も帰国すれば良いことでしたが、でも彼の選択肢には帰国の文字はありませんでした。
彼は海外で暮らすことに既に目覚めていたのです。


オーストラリアは気に入っていました。
でもこのまま一人でオーストラリアで暮らすことは嫌でした。
かといってニュージーランドに戻ることも、気に入りません。

彼女との思い出はどちらの国にもありそこから逃げ出したい気持ちもありましたが、何よりも、もっと知らない場所に行ってみたい、そういう気持ちがふつふつと湧き上がっていたのです。



世界一周チケット、その最初の寄港地はハワイでした。

後年酔うと彼は僕によく言っていました、「ハワイだけは絶対一人で来るところではない」、と。

でも僕は仕事で度々一人でハワイ、来ることあります。
言うほど悪くはないものです。


多分、、、、彼のその時の風体に問題があったような、気がします。
ワイキキでカラカウア通りで、バックパックを背負ったひげもじゃの男性が一人きり、、、、。
モアナサーフのバーでパイナップルの付いたマイタイを飲み、YMCAに戻る日本人バックパッカー、、、、。
しかも失恋したばかり。
良い思い出作れそうにありません。

その格好ならせめてダウンタウンかいっそ足を延ばしてネイバーアイランドへ行けば少しは楽しめたように思うのですが、、、。
キングストリートやカイルア、その辺りでもいいかもしれません。
いずれにしてもその時の彼には、ワイキキよりはどこでもマシのように思います。

ワイキキは人口の観光レジャーエリアです。
失恋したばかりのバックパッカーには、寂し過ぎます。


彼は今でも「ハワイ」という言葉に過剰反応をします。
気の毒ですが変なトラウマできてしまったようです。

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3つ年上の彼女は帰国後、カリフォルニアの彼宛に手紙を書きます。
渋谷ロフトに就職が決まったこと、そして彼のために日本のテレビドラマを取り溜めていること、そういう内容です。

彼と彼女のそんな手紙とビデオのやり取りは、彼女がロフトを辞めて、やがて大阪の人と結婚するまで続いたようです。




彼の世界旅行はハワイの後、カリフォルニアへ向かいました。
そしてどういうわけか、今でも彼はそこで暮らしています。

後年再開した彼は僕にこう言いました。オレはまだ世界旅行の途中なんだ、だってここでまだ2つ目なんだぜ。


グリーンカード取得、それに釣られてその地で暮らすことになったN君。

でも取得してからも今もそこで暮らしています。
もう20年になります。

「テリヤキのN」は、今ではカリフォルニアでも有名なスシシェフの一人になっています。


次回はN君の波乱に満ちたアメリカ生活について書きます。


posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:31 | ホノルル ☁ | Comment(1) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月16日

その人のきっかけ #2の2

カリフォルニア在住のN君の場合、その2


カリフォルニアに到着したN君は、バックパックを担いでダウンタウンのYMCAとジャパンタウンのYMCAとを交互に泊まった。

気分転換を考えてのことらしかったが、もちろん大した違いはなかったらしい。

それでもハワイとは違いバックパッカーにとってカリフォルニアは住み良い街ではあった。
同じ様な年代の同じ様な境遇の人間は多かったし、まだバックパッカーというものが珍しくない時代でもあり、そしてその地域は特にまだ、ジャック・ケルアラックが通り名になるくらい、そういう人間たちが多く、寛容な街だった。

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N君は食費を切り詰めてはいたけれど、ダウンタウンのYMCAに泊まった時だけは、奮発して日本食レストランに出かけていた。
ひげはそのままだったけど、きちんとシャワーを浴び、一番まともなポロシャツを着て、長いパンツを履いて出かけた。
寿司屋のカウンターに座り、当時流行り出したカリフォルニアロールを食べ、サッポロを飲んだ。
当時日本のビールはキリンとサッポロの2種類だけだった。キリンはカナダで作られていたから、サッポロだけが日本からのものだった。だから彼はいつもサッポロを注文した。

その店のウエイターやウエイトレスはN君と同年代が多かった。
2回ほど通っただけで、すっかり打ち解けた。
店が跳ねてから店の連中と飲みに出かけた。
ビリヤードをしたり、踊りに出かけた。
そういう店がニュージランドともオーストラリアとも違い、この街にはたくさんあった。
都会だった。これがアメリカのビックシティーだった。


N君は店のオーナー兼板さんに気に入られ、グリーンカードと引き換えに店で働くことを勧められた。
彼は世界旅行の途中であることを理由に断ろうとしたけど、いずれはどこかに落ち着くのだろう?それにここでグリーンカードを取って、その後また旅行続ければいいじゃないか? そういう風にオーナーにくどかれては、まだ二十歳そこそこの彼なんかは簡単に言いくるめられてしまった。

結局彼はその街で暮らすことになった。
ひげも剃った。
それからルームメート募集している物件を探し、引越しをした。

店のカウンターに座ることはなくなり、カウンターの向うのキッチンに入った。(そして後年そのカウンターの一番メインの場所に行くことになる)

でも、そんなに簡単にグリーンカードが取れるはずはなかった。


当時最速で1、2年で取れる人はいたけれど、それは平均ではなく、あくまで特別に順調に行った人の場合で、それにこういうことには必ず何かトラブルはつき物だった。


案の定彼の場合にもトラブルが起こった。その店がつぶれたのだ。

彼を誘ったオーナー兼板さんは失踪し、代わりに日本から新しいオーナーがやってきた。
日本の名の知れた企業が新しいオーナーになった。
そしてまもなく現地のマネージャーが送られてきた。

彼がその街で暮してから2年が過ぎていて、スシシェフになっていた。

グリーンカードはまだ取れていなかったけど、ワーキングパーミットだけは下りていた。
しかしそこからインタビューまでがなかなか進まない情況が続いていた。
そこへこのオーナー交代、最悪グリーンカード取得は一から出直しとなりそうだったし、そもそもここでこのまま働けるかどうかも分からなかった。


案の定、ホールで働いていた学生数人はレイオフされた。理由はまともな英語が話せないからだった。日本人客が圧倒的に多い店だったのだ。
しかし今度のオーナーはお客のターゲットをほぼ100%現地の裕福なアメリカ人を対象にするつもりで店をマネージメントする計画でいた。純日本風な従業員は必要ない、それが指針だった。
そういうわけで、キッチンでも昔から働いていた年配の従業員がレイオフされた。腕の良い頑固な職人だった。


マネージャーはN君を呼び、「君にはこの店の2番手として働いてもらいたい」、と言い、また、グリーンカードも引き続き、当社がスポンサーになるとのオファーを受けた。

悪くはない、でも面白くもない、それが気持ちだった。

彼は前のオーナーと今回辞めさせられた年配の従業員にかわいがられ、そして仕込まれた。


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ニュージーランドやオーストラリアで少しかじったことがある程度の彼に、築地の技術を叩き込んでくれたのはこの二人だった。彼らは腕が良かった。

今度の店はアメリカのジャパニーズレストランを目差すとのことだった。寿司ではなくSUSHI ということだ。

そしてそういう店に職人は不要との本部の判断ということだった。


彼は新しいマネージャーに適当な嘘をついて2ヶ月の休暇をとった。辞めるつもりでいた。

クビになっても構わないし、ここにいられなくなっても構わない。
そもそもこの街にとどまったきっかけの場所がなくなったのだ。

この2年でN君にも横のつながりができていた。
店以外にも日本人コミニュイティーのつながりがいつの間にかできていた。

「今何もしていないんだったら手伝ってよ」誰彼となくそう誘われた。
そしてそう誘われるままに、N君はいくつかの店を掛け持ちヘルプをして働いた。

そういうのは何となく面白かった。

そしてN君はこの街に自分の居場所を少しずつ実感し出した。


マネージャーは寛大な人間だった。
何も理由を聞くことなく彼に休暇を与え、そしてその休暇が終わる少し前頃にN君に連絡をし、何事もなかったかのように、向かい入れた。

復帰後、彼は以前にも増して働いた。そしてカウンター越しの彼の英語の発音も急速にカリフォルニア風へと変化していった。

やがて待ちに待ったグリーンカードのインタビューの知らせが彼の元に来た。
彼は初めてニュージーランドに旅立ってあの日から8年ぶりに日本に向かった。

目指すは在日本米国大使館。


その翌年僕は彼とカリフォルニアで再開した。

グリーンカード取得後、彼はまた二転三転することになる。
その続きはまた次回に。


posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:04 | ホノルル ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月19日

その人のきっかけ #2の3

カリフォルニア在住のN君の場合、その3



お礼奉公、、、、、。

アメリカの日本人社会では、今でもそういう習慣が残っている。


無事グリーンカード取れたからといって「はい、お世話になりました、これにて辞めます」というのはやはり日本人感情には馴染まないのか、、。


N君の場合は、結局グリーンカード取れてから3年間その店で働いた。

実際3年間のお礼奉公は、他の人の場合と比べると長い。
だからN君は十分礼を尽くしたといえるだろう。
しかしやはり辞める時には「裏切り者」呼ばわりする人もいた。

グリーンカードを持つもの持たないもの、明日が見えない人たちからすれば、嫉みとか嫉妬とか、そういう感情も湧いてくるのか、、、。

そういえば、同胞のチクリにより強制送還になる率が日本人が一番多いそうです。
そういうのは、確かに、寂しい。

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N君はスカウトされた。

その店の常連としてスシバーに来てN君が握るスシを食べていたチャイニーズアメリカンの実業家がN君を引き抜きに掛かったのだ。

その実業家を入れて3人のパートナーの共同資本で、大規模な新しいモダンアジアン料理のレストランをベイエリアにつくる、ついてはそこの総料理長にN君を、そういうことだ。

大抜擢だ。

広い箱、斬新なインテリアとコンセプト、チャイニーズでもジャパンーズでもない無国籍なモダンアジアン料理に、一流ホテル並みのサービスを取り入れたレストラン。
心は動いて当たり前です。


N君はそこで2年間、ハタから見ていても濃密に生き生きと働いていました。
一人色が違うキャップを被り、ワインレッド色のシェフコートを着て、オープンキッチン内で大声で英語で指示を与え働くN君は実際誇らしかったです。シビレましたね。
N君としても、たとえアメリカで暮していたにしても、実際にはこれが初めてのアメリカ社会、日本人が一人も居ないこの環境の中で、気持ちは高揚していたでしょう。
ましてやそこの現場の責任者ですから、なお更高ぶります。


そこを去るきっかけは、N君を誘ったパートナーの失脚でした。
それとともにN君も更迭されたということです。
アメリカらしいことです。


N君は、店を去ると、郊外に引越し、無職を楽しむことにします。
グリーンカードを取る前、一番最初の店が潰れた時以来の休暇です。久しぶりの休暇です。だからのんびり楽しむことにします。

引っ越した先のアパートメントの一階に小さな日本食レストランがありました。
スシバーに一人、キッチンに一人、ウエイターが昼一人、夜になるともう一人、そういう本当に最低限のお店です。
N君は時々一人でそこでランチを食べます。
ニュージーランドやオーストラリアや、カリフォルニアに来た当初のことをそこで思い出したりもします。そういう懐かしさがあります。市内と違う郊外の街並みのせいかもしれません。
空気がゆったりなのです。
ついこの間までいたアメリカビジネス社会とはまったく違います。

何度目かのランチの時、店前に手書きの募集チラシを見つけ、N君はその店でランチタイムだけ、ウエイター、として働くことになります。

特に履歴書とか書く必要はありません。ソーシャルセキュリティーナンバーがあること、グリーンカードがあること、その証明だけで即採用です。
郊外のこの店にN君の顔を知った人はそうたくさんはいないでしょう。しばらくバレることはなさそうです。

そういうのも悪くない、とN君は楽しそうです。
ウエイターをやってみたかったらしく、そしてやってみると楽しくて仕方ないといった感じです。


半年くらいそうやって過ごし、やがて昔のツテで市内の老舗店からスシシェフとしてお声がかかります。

昔から年上の人にかわいがられていたN君のことです。
人徳というやつです。

そして、昼はなぞのウエイター、夜は老舗のレストランのスシシェフ、そういうスタイルの暮らしが始まりました。

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夜の店は今でも続いています。
かれこれもう10年近いかもしれません。
N君はその店の花板となり、その街の有名なスシシェフとなっています。

ウエイターをしていたレストランではもう働いていませんが、今ではそこのオーナーとも良い友達みたいです。

N君が現場復帰してからも同業者であることはバレることなく、素直な良いウエイターとして働いていたN君です。

ただ、夜も働かないか?とか、キッチンやってみないか?とか誘っても、いつもその場しのぎの曖昧な返事しかしないN君のこと不思議がっていたみたいです。
ランチだけで、どうやっても生活できないだろうに、、そう思っていたみたい。

そしてある日、このオーナーが市内にたまたまやって来て、しかも偶然N君の働いている店に入り、そこでスシを食べ「あっ!」となったということです。
その時も、怒るということではなく、大笑いということみたいでした。



N君は、今でもあの街で働いています。



そういえば、N君、独立とかは考えていないのかい?

気が付かなかったけど、君も僕も、いつの間にかもう四十過ぎているんだぜ。驚きだろう?


それとも、まだ世界旅行の、途中なのかい? 










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2008年06月21日

ハワイ島不動産に関しての重要なお知らせ

ハワイ郡からの手紙

ハワイ島の場合、米国人の不動産所有者については通常3年間、固定資産税の滞納を続けると競売措置を取られます。
しかし過去において日本人の不動産所有者はどれだけ固定資産税を滞納していても延滞金が増えていくだけで、強制措置を取られた例は数えるほどしかありませんでした。

しかしながらこの度ハワイ島(ハワイ郡)は2005年度から本年度までの3年間支払いが滞っている全ての日本人所有者に対して、競売措置を取ることを正式に決定したとのことです。

その手始めとして、既に約2,000ドルが罰則金として追加課税されました。
それからこの罰則金は今月、6月中に支払われない場合は、その罰則金は増えていきます。

そして最終的な競売措置の実行は本年度11月に行なわれることになります。

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このような措置が取られることはかつてありませんでした。
非居住外国人の所有者に対してのこうした措置は、国際機関や法律等との絡みで、煩雑な手続きと時間が必要となるため、現実の実行は難しいものとされていました。
しかしとうとう今回、ハワイ郡は重い腰を上げたということです。


そういえば数ヶ月前カリフォルニア州のある町が破産宣告しました。サブプライムショックの余波は思った以上に深刻なのです。
アメリカ経済は大きなダメージを受けています。
ハワイの自治体も例外ではないということです。

米国不動産の値下がりは深刻です。

ハワイ郡としても、この極端な値下がりを続ける不動産市場の中で、且つ極端な買い手減少の中で、今ここでこういう措置でも取らなければ今後は更にもっと深刻な情況になるだろうということなのかもしれません。

今をぎりぎりの線だと考えたことが、今回の措置に踏み切った一番大きな判断要因ではないかと想像しています。

つまり、3年以上滞納している日本人所有者の物件を、仮に来年差し押さえたとします。
来年では、たとえ競売に掛けたとしても、もうほとんど捨て値に近い価格でないと、早くに買い手が現れることはないでしょう。
幸い買い手が決まったとしても、その売買価格から税金や共益費などの延滞分を差し引くと足が出てしまう、、、そういう状態がありえるのです。
そういう事情も十分考えて、今回このような措置に踏み切ったのでは、、、そう想像しています。


ハワイ不動産の所有者宛には、以前から多くの手紙(特に英語の)が届いていることでしょう。
そしてそのほとんどは業者からのダイレクトメールでしょうし、ジャンクメールでしょう。当然普段なら読まずに捨ててもいいものばかりです。

しかし昨今届くそれは上記のような、ハワイのお役所からの正式な通知書だったり、管理事務所から雇われた弁護士からの報告書であったり、あるいは裁判所からの出頭命令書だったかも知れないのです。

少しでもお心当たりのある方は、いつものように決して何でもゴミ箱に捨てないよう、念の為開封し、中身を確認してみてください。
 
管理を委託されている方は、そちらで必ずレビューを受けてください。

海外相談室でもご相談を受け付けております。
お気軽にお問い合わせ下さい。


折角の財産です。
知らないうちに競売になっていた、裁判所から呼出し命令が来た。
それではあんまりです、、、。
posted by 海外ロングステイ相談室 at 23:17 | ホノルル ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | ○海外ロングステイ相談室から

2008年06月24日

その人のきっかけ #3

フィラデルフィア在住のNさんの場合

Nさんは女性です。

彼女は25歳で渡米するまでごく当たり前にOLさんをしていた普通の女性です。
(では普通ではない女性とは何ぞや?と訊かれると少し困るのですけど)
現在40ウン歳。
改めて数えてみれば何と時の流れるのは早いこと、そしてそんなにもう経ったんだあ、と感じます。

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ノモとかイチローとか、サニー千葉とか、3代目アイアンシェフのモリモトとか、オノヨーコとか、有名な人のアメリカ生活、サクセスストーリーは確かにすごいです。
でもほとんどの邦人たちはみんな普通の人たちなのです。

その普通の人たちが現在も尚そこで異国で暮しています。
あなたと違うことは唯一つ、「きっかけ」です。

そのほんの些細な「きっかけ」が、全てはそこから始まっているのです。

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Nさんの実家は日本海沿いの歴史ある港町にあります。
両親は二人とも教師という家庭で、忙しい二人に代わり小さい頃から彼女を世話するおばあさんは一人、半分趣味みたいに民宿をやっていました。

Nさんは大学生になり東京で暮らすことになります。
でも休みのたびに帰省し、おばあさんの民宿を3つ年下の妹とともに手伝います。
Nさんの「きっかけ」は、大学生の頃にさかのぼります。その民宿での一人のお客さんとの出会いでした。Aさんといいます。そしてAさんはアメリカ人でした。

Aさんは民宿に泊まり、Nさんに一目ぼれします。
3日の滞在期間、何度も話しかけます。
もちろんNさんにも都合も事情もあります。
物事はいつもうまくいくものではありません。

Aさんは留学生で、東京の大学に通っていました。

Aさんは東京に戻ると、民宿に何度も手紙を書きます。
Nさんから東京の住所を教えてもらうことは出来ませんでした。だから宛先は民宿宛です。
それをおばあさんが東京のNさん宛に送ってよこすのです。
すごい量です。そして拙い文章です。
でもその分シンプルです。
自分の感情を最も単純な単語で表しています。


何度も読むうちに、一度くらいなら、会うことも良いだろう、Nさんの態度は少し軟化します。

Aさんは、物腰柔らかく丁寧で、そして紳士でした。
「紳士たれ!!」、アメリカのママンにそう言われて育ってきた筋金入りです。
車のドアの開け閉めは当然です。彼女を家まで送りに行き、彼女が家のドアを開け中に入りドアを閉めるまでエスコートは終わりません。そういう教育を子供の頃から受けてきたのです。

でも彼女にとってAさんは「魅力的」というフィールドからは大きくはずれていました。
彼女の趣味はジャンポールベルモンドやセルジュゲンズブール、デカタンの危ない香り、アメリカ東部の名門アイビーリーグ出身のAさんはそういう香りはと対極にある人でした。



Aさんが日本に興味を持ったきっかけは空手と合気道でした。
そしてAさんは訪日前に既にその両方の有段者でした。
交換留学の話しが彼の大学に持ち込まれた時、真っ先に手を上げたのはそのためです。
本場で稽古が出来る。
そして東洋の神秘、ジャパンを訪れることができる。

訪日し、しかしそこにあったのは、貧乏生活と孤独でした。

おまけに想像していた神秘なジャパンの美はどこにもありませんでした。

最後まで日本にうまく馴染めなかったAさんですが、結果的にものにしたことは2つありました。
「Nさん」と「日本語」です。
後年NさんはAさんの人生に最もかけがえの無い人となり、そして日本語は彼のキャリアの形勢に大きな力となってくれています。

Aさんはそういう人です。たとえ自らの想像したものがそこになくても、せっかくそこにある一定期間いる以上、ただいたずらに時を過ごすより、せっかくだから何かしらは手に入れよう、と。そういう人なのです。

後年Nさんは言います。
当時たまにAさんのアパートを訪れると、壁に向かい念仏のようにぶつぶつと日本語で何か話していたと。
気持ち悪いかもしれませんが、実際そうでもしなければある年齢に達したものが新しい言葉を覚えることはム難しいのです。

話しは変わりますが、英語を話すコツは、しばし英語だけの環境の中に徹底的に自分を追い込むこと。それに尽きるとよく言われています。
わざわざ海外に語学留学しに行って、外では日本人の友達と遊び、アパートでは日本語のケーブルテレビを見る、そんなことばかりしていては決して言葉は覚えられません。

自分を追い込む、考えてみれば外国ではそういう情況に自分を置きやすいものです。
それをどう生かすか、それはもちろん自分次第ですね。

Aさんの日本留学は2年間で終わります。
帰国です。
東部に戻り、そして大学を卒業します。

その後、Aさんはキャリアの第一歩をカリフォルニアでスタートすることにします。

実はこういうことはアメリカでは珍しいことではありません。
たとえばLAの大学を出て、ニューヨークでキャリアをスタートさせたり、そういう例はよくあることです。
またこの場合出身地はもう関係ありません。
基本的にアメリカ人は親を世襲しません、住む場所も、職業も。

NさんとAさんは文通を続けていました。
そこでAさんの語るカリフォルニアはNさんの興味を引きました。

Aさんが選んだ、サンフランシスコという街はカリフォルニアでもデカタンの香りがある街です。

Aさんは極めて合理的な理由で選択しただけでしたが、Nさんにとってはジャックケルアラックの街であり、フランシスコッポラの街であり、ジャックロンドンの街でした。
それは十分彼女の興味をひくものでした。


唐突ですが質問です。
もしあなたが、当時の彼女と同じくらい若くて、そして仲の良い信頼できる友人が住んでいる外国があったら、そしてその街はあなたの興味を引くには十分過ぎるくらい魅力的な要素があるとしたら、どうしていましたか?

正解です。
やはり彼女もそうしました。


でも、決断するまでにはかなり悩んだようです。

彼女はもう直ぐ24歳が終わろうとしていた3月、勤めていた会社に辞表を出します。
結果的に後年NさんとAさんは結婚することになるのですが、本当にその当時はそういうことはまったく考えていなかったそうです。
ただ行きたい、彼にも会いたいが、それ以上にあの街に行ってみたい、Aさんには申し訳ないが、当時はそういう気持ちだったということでした。

彼女の両親は猛反対でしたが、それを彼女の妹とおばあさんが説得してくれたようです。

そう決まれば、さて準備です。
まずはビザを取ることにします。
アメリカ市民のフィアンセ用にKビザというのもありますが、前にも言いましたが結婚は考えていなかったので、当然これも初めから考えていませんでした。

ですから学生ビザをターゲットにします。I-20を発行してくれる学校を見つけること、そうすればF1ビザを支給してもらえる。
ともかくAさんを頼りそういう情報を送ってもらいます。
当時のNさんは英語にはまったく自信はなかったので、大学というのは選択から外します。
語学学校で、学費が安く、I-20を発行してくれて、あまり日本人が来ない学校。
Nさんの希望通りにAさんはきちんとそれを探してくれました。
アメリカでも有数の多国籍街であるサンフランシスコ、Aさんが探したその学校の生徒の大多数は中国人とロシア人でした。

Nさんはその後貯金をかき集めて銀行で英語の預金証明を作成してもらいます。
学校から送ってもらったI-20と合わせて、それからパスポート原本を加えて管轄の領事館に送ります。
尚この郵送については、Nさんの実家から管轄の領事館まで行くには海を越えなくてはならず、だからこのように郵送によるビザの手続きが認められていたのです。

やがてビザのスタンプの付いたパスポートが彼女の元に無事届きます。見事F1ビザ取得です。

あとは最後の手続き、両替です。
Nさんはトラベラーズチェックに全財産を替えることにしました。
後年これについては後悔しているみたいでした。
何しろ、確かに手数料の面では良かったが、とにかく手間が掛かりすぎる、現地で口座を作る際、膨大な枚数のチェックにサインをしなくてはならず、苦労したということです。


ともかく、Nさんはアメリカに旅立つことになります。

Nさんの「きっかけ」も、大抵の人と同じ様にやはり偶然でした。

しかし今も尚そこで暮しています。

異国ですから苦労は当然です。
言葉とか法律の保護とか、その国の人間なら初めから当然のように備わっているものがまったくないのです。

それでもその地で暮らすというのは、何か理由があるのです。
なんだかんだ言っても、やはり「そこにいて楽しい」、それに尽きるような気がします。

25歳になりました。
Nさんのサンフランシスコ生活がスタートします。
苦労もあり、でも楽しい生活です。


余談ですが、地元に暮す日本人はサンフランシスコのことをサンフランと呼びます。それからベイエリアに住んでいる人はそのサンフランのことをシティーとも呼びます。

次回はNさんのサンフラン生活編を書きます。



posted by 海外ロングステイ相談室 at 22:17 | ホノルル ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月26日

その人のきっかけ #3の2

フィラデルフィア在住のNさんの場合:
<アメリカ人のキャリアについてと英語の覚え方編>


その頃Aさんは転職し2つ目のホテルでマネージャーとして働いていました。
サンフランで暮らし間もなく3年目になろうとした時です。
Nさんはとうとうアメリカにやって来ました。


話しは変わりますが、十数年前まで総合職とか一般職とか、ありましたよね。今で言うと正社員と派遣といった構図でしょうか。
この自由の国であるはずのアメリカ、そしてアメリカンドリームの国であるはずの場所で、実は日本のそれよりももっと高く超えられない職種の壁があるのです。

たとえばAさんは転職する際、1つ目のホテルでも、この2つ目のホテルでもマネージャーとして入社しています。
つまり初めから幹部として就職です。そして実はそれがアメリカ流なのです。
Aさんは大学でホテルマンとしての学位を取得しています。
ですから新人でありながら初めての職場から最初から幹部職として採用され、日本で言ういわゆる雑巾がけを経験することはありません。それはちょうど士官学校を卒業した若者が初めから仕官として採用されることに似ています。
つまりAさんも新人仕官も歩兵をすることは金輪際ないのです。

例えばアメリカの銀行でもそうです。
あの窓口業務をしてくれるテラーの人たち、あの人たちは今後何年そこで働いていてもそれ以上のキャリアの階段を上ることはありません。
それはテラーという職種に就いた人たちであり、彼らはマネージャーでも、ましてはバンカーという職業に就いたわけではないからです。
一言で言うと、アメリカの銀行では同じ銀行内でまったく違う職種の人が混在しているということなのです。

しかし日本ではたとえ幹部候補として期待している行員にも窓口業務をさせることもあるでしょうし、日本のホテルのベルボーイは数年後にフロントマネージャーになっていることもあるでしょう。

日本ではその会社に就職し、アメリカではその職業に就くのです。

見方を変えれば、全員が出世レースに強制参加しなくてはいけない日本に比べたら、気楽にやりたい人は気楽な道を選択できる、そう考えることも出来ます。

そしてアメリカのベルボーイだって、もしキャリアの階段を上ることを望めば、チャンスはあるのです。
つまり必要な学位を取ればいいことですし、もしそれ以上を望めば更にMBAでも取って今度は経営者としてのキャリアの道をスタートする、そうすればいいだけです。

更に日本では年齢というものが大きなネックで、なかなかやり直しができないのが現実ですが、しかしアメリカでは歳はまったく関係ありません。
第一履歴書に年齢を書かせること自体禁止されています。さらには人種差別を防ぐため写真も貼りません。あらゆる差別は許されないのです。

それからこれは余談ですが、アメリカではたとえ自己破産した人でも、会社を潰した人でも、何度でもやり直すことができるようなシステムになっています。敗者復活戦が容易なのです。
そういう意味ではやはりアメリカは自由の国で、チャンスの国なのです。
そして寛容なのです。
トータルでみれば公平で平等な社会なのです。

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サンフランでのAさんとNさんの同居生活が始まりました。
結婚したわけではないので、Nさんは当然家賃を半分負担することにします。生活費についてもそうです。Nさんはそういう性格でした。

Nさんは午前中英語学校に通います。
ムニバスの定期を買い、毎朝クレメントストリートからカリフォルニア1番のバスに乗ります。
学校にはビギニングとインターミデアとアドバンスと、クラスは3クラスあります。
Nさんは初日テストを受け最初インターミデアのクラスに振り分けられましたが、たった2日でビギニングのクラスに入り直すことになります。
つまり単語力はあり読解力はそこそこあるのですが、いざ授業となると先生の話も生徒の言葉もうまく聞き取れなかったからです。

授業は午前中だけです。
午後からは働きに行く人が多かったようです。
当時はまだ学生でも働けたのです。
働いている人たちの多くは、中国から来た生徒たちです。
経済的な理由で家族ぐるみで渡ってきたという人たちが多かったようです。
だから彼らを単純に「留学生」という言葉で言い表すことなどできません。

彼らは「新移民」なのです。
まず家族の誰か一人にF-1ビザを取らせる。その学費を一族で協力して作る。
そしてその家族にはF-2ビザがでますから、それで家族全員でアメリカに渡る。

家族の中で誰か一人、グリーンカードを取ってくれれば、そうすればしめたものです。
その家族ということで追随することが出来ます。
そのためには今は家族一丸となり協力です。
決して大袈裟ではなく、一族の今後が掛かっているのです。

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Nさんはまっすぐ家に帰り、昼食を作り一人で食べます。
貯金だけが頼りです。
これが尽きたらひとまず日本に帰る事になる。
無駄遣いは厳禁です。
(後年二人は結婚するわけですが、Aさんはもちろんですが、Nさんもこの時既にAさんと一緒になりたいと思っていたそうです。でもこの国で自分の力で何にも出来ない自分が、このままずっとAさんのお荷物になるのなら、そのことが一番気がかりで、素直に気持ちを受け入れること、伝えることを決めかねていたのです。)


ともかく英語を覚えることです。
そしてそのためには楽しく覚える方法を見つけることです。
そうNさんは決め、大好きな映画に、午後はマチネに出かけることが多かったようです。

マチネ、アメリカにはそういうシステムがあります。
平日の昼間は映画が半額なのです。

実際、映画はとてもよい英語の勉強になります。
よっぽど難解な映画でもない限り、人種のルツボのアメリカでは、映画に使われる言葉は大多数の人が理解可能な言葉を使用するように作られています。
日本では信じられにくいことですが、この移民の多い国では皆が同じ英語力レベルではありません。
そしてそういう人にでも映画館に来てもらわなければ興行成績は上位にならないのです。
だから興行成績1位になる映画ということはすなわち全米で暮らす全て人種が理解できるだろう易しい言葉で語られている映画ということでもあるのです。

ところでアーノルドシュワルツネッカーはオーストリア人です。
ですからデビュー間もない頃の彼の英語の発音は全米で暮らす全ての人種の理解を得るには不十分でした。
だから彼の初期の映画は極端にセリフを少なくしていますし、特には発音の難しい単語は彼のシナリオには元々ありません。
結果子供からお年寄りまで、外国人から留学生まで分かる言葉、単語を使った映画となったのです。


しかし誰にでも好みはありまして、Nさんはシュワルツネッカーや、同じ様に易しい英語を多用して作られているスライ(スタローン)の映画を見ることはありませんでした。

Nさんはアメリカに住んでいながら、フランス映画やイタリア映画を好んで見ていました。(まったく、どこが英語の勉強ですか?)
だから初めの頃は外国映画に付いている、英語の字幕を素早く読むことに追われて、一本の映画を見た後はもうぐったり、そういうことらしかったようです。


他のNさんのテリトリーは図書館でした。
バロックやロココ調の建築物の多いサンフランでは、こういうパブリックな建物もそういう様式が多いです。
しかも100年ものの建物です。
散歩の楽しい街です。(ただしダウンタウンの散歩にはご注意を、サンフランは坂の街でもあるのです)

吹き抜けの回り廊下に無造作に置かれた年代物のロココ調のイスに腰掛け、彼女は絵本と詩の本をたくさん読みます。元々読書は大好きです。

言葉を覚える場合、人にはタイプがあるようです。
Nさんは完全な文字型の人のようです。
だから今でも“話すこと”よりも“書いたり読んだりすること”が得意みたいです。
でもそれは英語だからということではなく、日本語の場合もそうだったような気がします。

性格ですね。

それに比べて耳で言葉を、「音」として英語を覚えていく人もいます。
後で文章を読んでみて「ああそうか、主語は実はここに隠れていたんだ」、そういう人です。
歌の歌詞はすっかり音で覚えているはずが、あとで歌詞カードを読んで「あれ、そこそういうことだったの?」というのと同じです。

文字派であっても音派であっても、経験的にいえることは、自分が楽しいと感じられる方でやったほうが、覚えがいいということです。
だから逆に「絶対こうしなければ英語を身につけることは出来ない」というように自分を追い込んでいくと、まず覚えられないものです。
何事も楽しければ、その効果は何倍にもなって現れるということです。これは何も英語に限りませんが、、、。

長くなりましたので今日はこの辺にしまして、次回はNさんとAさんの結婚とグリーンカードの申請から取得について、その頃起こったエピソードを添えて書いてみようと思います。

posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:58 | ホノルル ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月29日

その人のきっかけ #3の3

フィラデルフィア在住のNさん : 4人家族編

結婚式はアメリカ東部のAさんの実家に戻り、日本からはNさんの両親だけを招待して執り行います。

そうです。Nさんはあれから必死で英語の勉強をし、大学に入り直して学位も取得し、、、、、、、、、、、、ということではありません。

甘えることが辛くない、元来人に気を使うNさんが、いくら甘えても何となくAさんにならそれが辛くない、それが結婚の決め手ということでした。


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さあ今度はグリーンカードの申請です。

アメリカ人と結婚したんだから、とても簡単にグリーンカードが取れそうに思われがちですが、なかなかそうはいきません。


5年、6年掛かる人ザラです。
昔そういうタイトルの映画にもなったように、移民の国アメリカでは偽装結婚は多いのです。
祖国では仕事もなく食料もなく、アメリカだけが望み、そうやって渡って来る人、今も絶えることはありません。
Nさんもいろいろなこと、移民局の役人とのインタビューで質問されたそうです。
かなり突っ込んだこと、失礼な質問、たくさんです。
経済的なことは当然、Aさんとの夜の生活のことも聞かれます。
後でAさんが抗議をしたほど失礼な内容もあったようです。

余談ですが、アメリカは不法移民を防ぐ為、こういう厳格な態度で接している反面、恩赦等でいともあっさりグリーンカードを発給することもあります。
「潜っている人出ておいで!出てきたら永住権あげますよ」といって本当にあげてしまうのですから、、、。
大胆というか、太っ腹というか、、ある意味さすがです。(でもやっぱり滅茶苦茶です)

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結婚してからNさんは、英語学校から市で運営しているアダルトスクールのようなところに移ります。
結婚によりグリーンカード取得は未だでも、申請中ということで滞在は合法となりましたので、学生ビザの維持のために高額な英語学校にいる必要がなくなったからです。

(でもこれはあくまで滞在許可だけですので、この間もし日本に帰国したら、ビザがあるわけではありませんので、全ては一からの申請となります。ですからグリーンカード取得までのこの時期は帰国できない数年間として過ごすことになるのです。)

ただ英語だけ習うアダルトスクールは退屈に感じ、Nさんは料理とアートのクラスをとることにします。
何かのついでの英語の勉強ということです。

こういうクラスに入ると一気にクラスメートの顔ぶれが変わります。アメリカ人が多くなるのです。
当然といえば当然ですが、語学学校にアメリカ人は一人もおりません。
ですからある意味、ようやくここで本物のアメリカ英語と触れ合うことになるのです。

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実際のグリーンカードが下りる前、ワーキングパーミッドが先に発行されます。

だからNさんはパートタイムで仕事をすることにします。

サンフランという街には大きなジャパンタウンがあるお陰で、比較的まだ英語がうまくない日本人にもアルバイトを見つけやすい街です。
ジャパンタウンの日系スーパーマーケットの掲示板にはいろんな掲示がしてあります。
ルームメイト募集、物々交換、売ります/買います、ウエイター/ウエイトレス募集、中にはモデル募集という怪しいものもあります。
当時、インターネットのなかった頃はこういう掲示板を利用して、情報を交換し合っていたものです。

さてNさん、レストランから始まり、ベビーシッター、街頭勧誘、掲示板にあるものいろいろやってみます。長続きしたものもあるし、マネージャーとけんかしてその日で辞めてしまった仕事もあります。

Nさんは海外に来て初めて、自己主張をすることも覚えたと言います。

ただアメリカの仕事は交通費は全て自己負担ですから、その日で辞めてしまうと結局赤字、それが何ともシャクではありましたが。


サンフランで3つ目のホテルに転職したNさんは、思いもよらず大規模なリストラに巻き込まれそうになってしまい、その直前に自らその職を辞することにします。

そして東部で大学院に入り直すことを決意します。
これはアメリカでは決して珍しいことではありません。

AさんとNさんは、長らく暮したサンフランシスコに別れを告げ、ニューヨーク州のカナダ寄りにある小さな町に、家族3人で引っ越すことになります。
栗毛の赤ちゃんが一緒です。

「こんな時にお父さん無職よ、大丈夫ですかネー」

Nさんは日本語で、Aさんは英語で育てることにします。
悲壮感は誰にもまったくありません。

それよりもこれからの新しい出会いに心躍ります。

新天地は何年ぶりかの雪景色です。

カリフォルニアにはなかった景色です。
改めてアメリカは広いと感じます。

Aさんは約2年でMBAを無事取得します。
そしてニューヨークのリゾート関連会社にディレクターとして勤務します。

その翌年同業の会社からパートナーとしてスカウトされ、そこのCOOに就任します。


フィラデルフィア、、、。

今AさんとNさんは家族4人でその地で暮しています。

まだまだこれから楽しくなりそうです。
posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:21 | ホノルル ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ