2008年06月24日

その人のきっかけ #3

フィラデルフィア在住のNさんの場合

Nさんは女性です。

彼女は25歳で渡米するまでごく当たり前にOLさんをしていた普通の女性です。
(では普通ではない女性とは何ぞや?と訊かれると少し困るのですけど)
現在40ウン歳。
改めて数えてみれば何と時の流れるのは早いこと、そしてそんなにもう経ったんだあ、と感じます。

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ノモとかイチローとか、サニー千葉とか、3代目アイアンシェフのモリモトとか、オノヨーコとか、有名な人のアメリカ生活、サクセスストーリーは確かにすごいです。
でもほとんどの邦人たちはみんな普通の人たちなのです。

その普通の人たちが現在も尚そこで異国で暮しています。
あなたと違うことは唯一つ、「きっかけ」です。

そのほんの些細な「きっかけ」が、全てはそこから始まっているのです。

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Nさんの実家は日本海沿いの歴史ある港町にあります。
両親は二人とも教師という家庭で、忙しい二人に代わり小さい頃から彼女を世話するおばあさんは一人、半分趣味みたいに民宿をやっていました。

Nさんは大学生になり東京で暮らすことになります。
でも休みのたびに帰省し、おばあさんの民宿を3つ年下の妹とともに手伝います。
Nさんの「きっかけ」は、大学生の頃にさかのぼります。その民宿での一人のお客さんとの出会いでした。Aさんといいます。そしてAさんはアメリカ人でした。

Aさんは民宿に泊まり、Nさんに一目ぼれします。
3日の滞在期間、何度も話しかけます。
もちろんNさんにも都合も事情もあります。
物事はいつもうまくいくものではありません。

Aさんは留学生で、東京の大学に通っていました。

Aさんは東京に戻ると、民宿に何度も手紙を書きます。
Nさんから東京の住所を教えてもらうことは出来ませんでした。だから宛先は民宿宛です。
それをおばあさんが東京のNさん宛に送ってよこすのです。
すごい量です。そして拙い文章です。
でもその分シンプルです。
自分の感情を最も単純な単語で表しています。


何度も読むうちに、一度くらいなら、会うことも良いだろう、Nさんの態度は少し軟化します。

Aさんは、物腰柔らかく丁寧で、そして紳士でした。
「紳士たれ!!」、アメリカのママンにそう言われて育ってきた筋金入りです。
車のドアの開け閉めは当然です。彼女を家まで送りに行き、彼女が家のドアを開け中に入りドアを閉めるまでエスコートは終わりません。そういう教育を子供の頃から受けてきたのです。

でも彼女にとってAさんは「魅力的」というフィールドからは大きくはずれていました。
彼女の趣味はジャンポールベルモンドやセルジュゲンズブール、デカタンの危ない香り、アメリカ東部の名門アイビーリーグ出身のAさんはそういう香りはと対極にある人でした。



Aさんが日本に興味を持ったきっかけは空手と合気道でした。
そしてAさんは訪日前に既にその両方の有段者でした。
交換留学の話しが彼の大学に持ち込まれた時、真っ先に手を上げたのはそのためです。
本場で稽古が出来る。
そして東洋の神秘、ジャパンを訪れることができる。

訪日し、しかしそこにあったのは、貧乏生活と孤独でした。

おまけに想像していた神秘なジャパンの美はどこにもありませんでした。

最後まで日本にうまく馴染めなかったAさんですが、結果的にものにしたことは2つありました。
「Nさん」と「日本語」です。
後年NさんはAさんの人生に最もかけがえの無い人となり、そして日本語は彼のキャリアの形勢に大きな力となってくれています。

Aさんはそういう人です。たとえ自らの想像したものがそこになくても、せっかくそこにある一定期間いる以上、ただいたずらに時を過ごすより、せっかくだから何かしらは手に入れよう、と。そういう人なのです。

後年Nさんは言います。
当時たまにAさんのアパートを訪れると、壁に向かい念仏のようにぶつぶつと日本語で何か話していたと。
気持ち悪いかもしれませんが、実際そうでもしなければある年齢に達したものが新しい言葉を覚えることはム難しいのです。

話しは変わりますが、英語を話すコツは、しばし英語だけの環境の中に徹底的に自分を追い込むこと。それに尽きるとよく言われています。
わざわざ海外に語学留学しに行って、外では日本人の友達と遊び、アパートでは日本語のケーブルテレビを見る、そんなことばかりしていては決して言葉は覚えられません。

自分を追い込む、考えてみれば外国ではそういう情況に自分を置きやすいものです。
それをどう生かすか、それはもちろん自分次第ですね。

Aさんの日本留学は2年間で終わります。
帰国です。
東部に戻り、そして大学を卒業します。

その後、Aさんはキャリアの第一歩をカリフォルニアでスタートすることにします。

実はこういうことはアメリカでは珍しいことではありません。
たとえばLAの大学を出て、ニューヨークでキャリアをスタートさせたり、そういう例はよくあることです。
またこの場合出身地はもう関係ありません。
基本的にアメリカ人は親を世襲しません、住む場所も、職業も。

NさんとAさんは文通を続けていました。
そこでAさんの語るカリフォルニアはNさんの興味を引きました。

Aさんが選んだ、サンフランシスコという街はカリフォルニアでもデカタンの香りがある街です。

Aさんは極めて合理的な理由で選択しただけでしたが、Nさんにとってはジャックケルアラックの街であり、フランシスコッポラの街であり、ジャックロンドンの街でした。
それは十分彼女の興味をひくものでした。


唐突ですが質問です。
もしあなたが、当時の彼女と同じくらい若くて、そして仲の良い信頼できる友人が住んでいる外国があったら、そしてその街はあなたの興味を引くには十分過ぎるくらい魅力的な要素があるとしたら、どうしていましたか?

正解です。
やはり彼女もそうしました。


でも、決断するまでにはかなり悩んだようです。

彼女はもう直ぐ24歳が終わろうとしていた3月、勤めていた会社に辞表を出します。
結果的に後年NさんとAさんは結婚することになるのですが、本当にその当時はそういうことはまったく考えていなかったそうです。
ただ行きたい、彼にも会いたいが、それ以上にあの街に行ってみたい、Aさんには申し訳ないが、当時はそういう気持ちだったということでした。

彼女の両親は猛反対でしたが、それを彼女の妹とおばあさんが説得してくれたようです。

そう決まれば、さて準備です。
まずはビザを取ることにします。
アメリカ市民のフィアンセ用にKビザというのもありますが、前にも言いましたが結婚は考えていなかったので、当然これも初めから考えていませんでした。

ですから学生ビザをターゲットにします。I-20を発行してくれる学校を見つけること、そうすればF1ビザを支給してもらえる。
ともかくAさんを頼りそういう情報を送ってもらいます。
当時のNさんは英語にはまったく自信はなかったので、大学というのは選択から外します。
語学学校で、学費が安く、I-20を発行してくれて、あまり日本人が来ない学校。
Nさんの希望通りにAさんはきちんとそれを探してくれました。
アメリカでも有数の多国籍街であるサンフランシスコ、Aさんが探したその学校の生徒の大多数は中国人とロシア人でした。

Nさんはその後貯金をかき集めて銀行で英語の預金証明を作成してもらいます。
学校から送ってもらったI-20と合わせて、それからパスポート原本を加えて管轄の領事館に送ります。
尚この郵送については、Nさんの実家から管轄の領事館まで行くには海を越えなくてはならず、だからこのように郵送によるビザの手続きが認められていたのです。

やがてビザのスタンプの付いたパスポートが彼女の元に無事届きます。見事F1ビザ取得です。

あとは最後の手続き、両替です。
Nさんはトラベラーズチェックに全財産を替えることにしました。
後年これについては後悔しているみたいでした。
何しろ、確かに手数料の面では良かったが、とにかく手間が掛かりすぎる、現地で口座を作る際、膨大な枚数のチェックにサインをしなくてはならず、苦労したということです。


ともかく、Nさんはアメリカに旅立つことになります。

Nさんの「きっかけ」も、大抵の人と同じ様にやはり偶然でした。

しかし今も尚そこで暮しています。

異国ですから苦労は当然です。
言葉とか法律の保護とか、その国の人間なら初めから当然のように備わっているものがまったくないのです。

それでもその地で暮らすというのは、何か理由があるのです。
なんだかんだ言っても、やはり「そこにいて楽しい」、それに尽きるような気がします。

25歳になりました。
Nさんのサンフランシスコ生活がスタートします。
苦労もあり、でも楽しい生活です。


余談ですが、地元に暮す日本人はサンフランシスコのことをサンフランと呼びます。それからベイエリアに住んでいる人はそのサンフランのことをシティーとも呼びます。

次回はNさんのサンフラン生活編を書きます。



posted by 海外ロングステイ相談室 at 22:17 | ホノルル ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ