外国で暮らしている誰かと接している時、ふとその人のことを「外国人になった」と感じる時、それは「肯定」からの気持ちだったですか?
それとも「否定」からだったですか?
外国に暮らすようになると、当然環境は一変します。
その環境に適応していく度に、我々自身も変わってきます。
大げさに言えば、変わらなければそこで生活していくことも困難です。
でもその「変化」、「適応」にも個人差があります。
その国に溶け込みその国の仕事をし、その国の人たちと共に生活している人たちと、母国の文化に関わった仕事を母国の人たちと共にし、その余暇ですら母国の生活習慣を多く取り入れた暮らしをしている人たちとでは、その考え方はまったく異なります。
ともすれば異国で母国語で暮らしている人たちの方が、その国で住んでいる時間が長くなれば長くなるほど、ステレオタイプの考え方が染み付いてくることが多いように思います。
同じように、でもその国の言語で長く暮らしている同胞の人たちからたくさんの話を聞くうちに、まるでそこで自分が体験したような錯覚と共に、知らぬ間に知らない記憶が刷り込まれてくることも多々あることです。
「何人はこういう人たちだ」、「彼は何人だからこういうところには気をつけろ」、、、、。
異国で、そういう話を、現地に住む日本の人から良く聞く話です。
実際に悪い体験をしたのかもしれません。
でも何度も何度もということはなかったでしょう。
せいぜい一度や二度、それに同胞の話も加わり、いつしか全てのナニ人はこういう人、、、ということに、そういうイメージになってしまってしまう。
それに昔から語り続けられていたステレオタイプのイメージまで、頑なにそのベースに残ったまま、「ナニ人はこういう人たちだから気をつけろ」になってしまう。
日本人は「勤勉で、器用で、自己主張をしなくて、団体行動を好む、エトセトラ、エトセトラ、、、」そう昔から言われています。
あなたはこれらにどれだけ当てはまっているのですか?
知らぬ間に刷り込まれた記憶と、たった一度だけの強烈な記憶。
これが入り混じって、過度な緊張の続く外国生活の中で、自己防衛としての様々なモノやヒトへの定義づけが生まれてくるのかもしれません。
安心するためです。
あなたが思う「外国人」に対しての、あなたの知らぬ間に作られたイメージがもし「負」のものだったとしたら、あなたの使う「外国人になった」と言う言葉は否定から来ているのでしょう。
どこでそのイメージを刷り込まれたのですか?
あなたの体験したその強烈な記憶、、、。
その場合の「外国人」とは、実は外国人でなかった、ということが多いものです。
その場合の外国人とは、外国人になったように見えた日本人であったことが意外と多いものです。
悲しいことに同胞にだまされることが意外とあるのです。
日本にいても外国にいても、そういう輩は存在します。
あなたの隙を巧みに突いてくる嫌な輩です。
あなたの隙とは、例えば「言葉」です。
そう言ってしまうと身も蓋も無いですか?
でも本当にはそれ以上に「自信」と「覚悟」なのです。
あなたには今まで立派に厳しい日本で生きてきた事実と経験があるのです。
寄生虫のようなそんな輩に、大した外国語もほんとうにはできない輩に頼る必要はないのです。
(まともにその国で生きていっている人たちは、寄生はしません。そんな暇すらないのです。)
つけこまれないように、、。
やれることは自分でやるように習慣付けてください。
簡単なことまで他人に頼もうとするから、そういう簡単なことしかできない寄生虫が沸いてくるのです。
「外国人になった」
あなたにもいつの日か、その言葉を誰かへの褒め言葉として使って欲しいと願っています。