2008年06月09日

その人のきっかけ #1

アメリカ在住のHさんの場合

今朝知り合いからHさんについてのニュースが入ってきましました。

どうやら先月でお店閉めたとのこと、、、、。


ここ一、二ヶ月そういううわさはあったから、やっぱり残念です。
でも別の知り合いからの話しでは、クパティーノで再開するとの話し。
だといいな。
是非そうあってほしい。

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Hさん、もう数年会っていない。

でもきっといつかまた、会いたい、必ず会えると思う。

いろいろあった。
いい思い出たくさんある。
迷惑もたくさんかけた。

思い出すたびに鼻の奥に鈍い刺激が走る。

時間は既に、かなりが経過した。

あの時のその景色はもちろんないだろう。
それでも懐かしいだけでは片付けられない、そういう思いは変わらない。



その人は30台半ばに奥さんと小学校に入ったばかりの娘と3人で、海を渡った。
どこかの会社の駐在員としてでもないし、留学ということでもない。
勤めていた会社を辞めて渡ったのだ。

誰からか呼ばれたわけではない。
自分の意思と家族の賛成だけが、その理由だ。

勤めていた会社が海外に関係していたわけでもない。語学に秀でていたわけでもない。(どちらかというとその真逆の人です)

転職暦が一度あるだけの、ごく普通のサラリーマン。でも30過ぎてすぐ課長さんになったと話していたから、もしかしたらとても優秀なサラリーマンだったのかも。
でもあっさり会社辞めて、海を渡った。しかも、奥さんとまだ小さな子供を連れて。



自分の意思だけで海を渡った人間たちにできる仕事は決まっている。言葉、ビザ、様々な障害がある人たちなのだ。
だから、必要なものは体力だけ、そういう仕事をするしかない。
そういう生活が始まる。嫌なら帰るしかない。

だから多くの人はここで挫折する。

労働時間は長くしかしその賃金は少ない。

でも不満を言うことはすなわち帰国を意味する。
より良いビザに変えなければこの日々から逃れられない。
そのためには金がいる。
働く。
しかし賃金は少なく、しかも労働環境は悪い。
悪循環だ。

抜け出すためには、そして海を渡った最初の目的を抱き続けることは、簡単なことではない。

金やビザ以外にも、言葉、食事、習慣、そういうものからも知らず知らずにストレスを受けている。

ストレスから逃れるために日本語のビデオにだけ安らぎを見出す人もいる。海外に居ながら海外を一時的に拒絶する時間を少しでも設けないと壊れそうになる。

続けていた勉強を止める人もいる。眠りたい、それが理由だ。

しかしそういう人はまだ救われている。少なくてもその体力仕事は続いているからだ。

多くの人はその仕事を続けることができない。だから早々と日本へと帰っていくことになる。


しかし、本当は早く帰ったほうがいいのだ。
長く居れば居るほど、帰ることができなくなるから。

浦島太郎は日本では通用しない。


ビデオで日本のドラマを見て、日本街のカラオケで十年前に流行った歌を歌う、でも少なくても外国に住んでいる、このことがプライドであり、心の支えだ。
慣れればこの生活は悪くない。何か楽なのだ。でも何の未来もない、、、。

話しが脱線しました。
ともかく。


Hさんは奥さんと必死で働いた。

睡眠時間を削り技術を身につけ、体力だけの仕事からの脱出を常に試みていた。お金を貯め、来るべきグリーンカード取得のための弁護士費用に備えた。

そのうち苦手の英語は娘が代わりにしてくれるようになった。

小学校一年生だった娘が大学生になる、わずか10年の間に、娘の人生は親のそれの二乗以上に変わったのだろう。

やがてその地で生まれた妹ができ、家族の絆はより強くなっていく。
頼るものは自分たちだけ、海外で暮らす家族の絆は本当に強いのだ。



Hさんのグリーンカード、約10年かかっている。
これが取れるまでのその苦労や我慢は想像にしがたい。

もう帰る場所はないのだ。

そして家族がいる。何とかしなくてはならない。
でも家族のことは決して負荷ではない。その逆だ。彼にとって家族の存在は、これが支えなのだ。


彼はグリーンカードを手にした。

そして自分の城を築いた。すごいことです。

海を渡った時には何も持っていないただのおじさんだったのに、あなたは本当にすごいです。

そしてあなたはその城をステップアップした。
評判は僕のところにも聞こえてきていましたよ。

おめでとうございます。やったね!

店閉めたそうですが、でもぜんぜん心配していません。あなたの強さ、僕はよく知っていますから。

いつか僕はそこを訪れます。そして深々とお辞儀をします。


今僕はあの時より10歳、歳取りました。もちろんあなたも同じです。
しかしあなたはきっとあの時と同じ様に、気丈にいるのでしょうね。

でももうそろそろ無理、しないでいて欲しいです。
僕のようにまでとは言わないけど、少しは他人に弱さ見せてください。





特別な人だけが海を渡るわけではありません。
海を渡った人が特別ということでもありません。
でも渡った人だけが見えるものは確かにあります。

残念ながら、これは他の人には見えません。


遅過ぎることはありません。

どこかに諦めきれない気持ちがあるのなら誰かに相談くらいはしてみましょう。


僕たちが海を渡った時より少なくとも情報はたくさんあります。
知恵もあります。
必要なのは、エイエイヤー、という一歩だけだと思います。


移住でも、海外ロングステイでも、最後はやはりエイエイヤーです。

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2008年06月12日

その人のきっかけ #2

カリフォルニア在住のN君の場合

最初はニュージーランドに行ったんじゃなかったっけ?

18歳から19歳になろうとしていた頃、君は仲間内で一番早く海外に、しかも旅行じゃなくて住むために、行ったよね。

その時僕も何人かと一緒に君を成田まで見送りに行きました。
「いいなー」
僕にとっては生まれて初めての成田だったんだ。
ホント、僕も飛行機乗りたかったよ。




でもさ、それから10年近く経って、まさかカリフォルニアで君と再開できるとは、あの時はもちろん想像もしていなかったね。

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N君の叔母さんはニュージーランド人と結婚していて、現地で日本食レストランを経営していたのです。
第一志望の大学に落ちてモンモンとしていたN君の家へ遊びに来ていた叔母さんが「じゃあ気分転換にしばらくウチおいで。店手伝ってくれればただで泊まらせてあげる」その一言で浪人中の彼はニュージーランドに旅立ちました。
誰もがN君はすぐに帰ってくるもんだと思っていたけれど、結局今現在もアメリカ在住、かれこれ海外生活通算四半世紀にもなるんじゃないのかな。わからないものです、人生は。


ニュージーランドにはワーキングホリデーがあり、彼のような若者は短期的な職に就きながら一定期間生活をすることができます。
数ヶ月から1年くらいそこで働きながら学び、再び日本に帰っていきます。

叔母さんのレストランにも日本から渡ってきた若者が何人か働いていて、若い男女がにぎやかに団体生活しています。
さながら昔のニュージーランド版“あいのり”といった感じですかね。

N君はここで働き、恋愛し、英語を身につけます。
初めて魚を捌き、テリヤキチキンを焼き、英国風の英語を覚え、年上の彼女を作ります。


そして次の年にはオーストラリアに渡ります。
3つ年上の彼女と一緒にです。
オーストラリアへは彼の意思ではなく、彼女のもともとの計画ということで渡ったようです。
でももちろん彼に依存あるはずはありません。
そろそろ叔母さんという身内から離れたくなっていたし、違う国に渡ることにも興味もあったし、何よりそこで彼女と二人っきりで暮らせることは嬉しくないはずはないのです。


スシはまだメジャーな日本食ではない頃です。
彼はオーストラリアでひたすらテリヤキチキンをクックします。
バンバン焼いて、バンバン、タレかけます。
「テリヤキのN」と、この頃呼ばれていたそうです。

彼女はフロアーを走り回ります。
愛想を振り撒き、すっかり板に付いた英国風の発音の英語でお客さんと会話します。


仕事が終わると、二人はアパートに戻り、彼女の家族が送ってくる日本のテレビドラマのビデオを二人で見て、それからひとつベッドで眠ります。
休みの日には「地球の歩き方」を見て、それに載っているお店、観光名所を二人で訪ねます。
そういう生活を半年ほど続けていました。


やがて、彼は格安な世界一周旅行のチケットを一枚だけ買うことにします。
彼女が日本に帰ることを決めたからです。

それは彼女がこの地に来る時に交わした家族との約束の時期であったし、何よりワーキングホリデーには必ず終わりが来るものなのです。

二人が今後も一緒にいるためには、彼も帰国すれば良いことでしたが、でも彼の選択肢には帰国の文字はありませんでした。
彼は海外で暮らすことに既に目覚めていたのです。


オーストラリアは気に入っていました。
でもこのまま一人でオーストラリアで暮らすことは嫌でした。
かといってニュージーランドに戻ることも、気に入りません。

彼女との思い出はどちらの国にもありそこから逃げ出したい気持ちもありましたが、何よりも、もっと知らない場所に行ってみたい、そういう気持ちがふつふつと湧き上がっていたのです。



世界一周チケット、その最初の寄港地はハワイでした。

後年酔うと彼は僕によく言っていました、「ハワイだけは絶対一人で来るところではない」、と。

でも僕は仕事で度々一人でハワイ、来ることあります。
言うほど悪くはないものです。


多分、、、、彼のその時の風体に問題があったような、気がします。
ワイキキでカラカウア通りで、バックパックを背負ったひげもじゃの男性が一人きり、、、、。
モアナサーフのバーでパイナップルの付いたマイタイを飲み、YMCAに戻る日本人バックパッカー、、、、。
しかも失恋したばかり。
良い思い出作れそうにありません。

その格好ならせめてダウンタウンかいっそ足を延ばしてネイバーアイランドへ行けば少しは楽しめたように思うのですが、、、。
キングストリートやカイルア、その辺りでもいいかもしれません。
いずれにしてもその時の彼には、ワイキキよりはどこでもマシのように思います。

ワイキキは人口の観光レジャーエリアです。
失恋したばかりのバックパッカーには、寂し過ぎます。


彼は今でも「ハワイ」という言葉に過剰反応をします。
気の毒ですが変なトラウマできてしまったようです。

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3つ年上の彼女は帰国後、カリフォルニアの彼宛に手紙を書きます。
渋谷ロフトに就職が決まったこと、そして彼のために日本のテレビドラマを取り溜めていること、そういう内容です。

彼と彼女のそんな手紙とビデオのやり取りは、彼女がロフトを辞めて、やがて大阪の人と結婚するまで続いたようです。




彼の世界旅行はハワイの後、カリフォルニアへ向かいました。
そしてどういうわけか、今でも彼はそこで暮らしています。

後年再開した彼は僕にこう言いました。オレはまだ世界旅行の途中なんだ、だってここでまだ2つ目なんだぜ。


グリーンカード取得、それに釣られてその地で暮らすことになったN君。

でも取得してからも今もそこで暮らしています。
もう20年になります。

「テリヤキのN」は、今ではカリフォルニアでも有名なスシシェフの一人になっています。


次回はN君の波乱に満ちたアメリカ生活について書きます。


posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:31 | ホノルル ☁ | Comment(1) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月16日

その人のきっかけ #2の2

カリフォルニア在住のN君の場合、その2


カリフォルニアに到着したN君は、バックパックを担いでダウンタウンのYMCAとジャパンタウンのYMCAとを交互に泊まった。

気分転換を考えてのことらしかったが、もちろん大した違いはなかったらしい。

それでもハワイとは違いバックパッカーにとってカリフォルニアは住み良い街ではあった。
同じ様な年代の同じ様な境遇の人間は多かったし、まだバックパッカーというものが珍しくない時代でもあり、そしてその地域は特にまだ、ジャック・ケルアラックが通り名になるくらい、そういう人間たちが多く、寛容な街だった。

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N君は食費を切り詰めてはいたけれど、ダウンタウンのYMCAに泊まった時だけは、奮発して日本食レストランに出かけていた。
ひげはそのままだったけど、きちんとシャワーを浴び、一番まともなポロシャツを着て、長いパンツを履いて出かけた。
寿司屋のカウンターに座り、当時流行り出したカリフォルニアロールを食べ、サッポロを飲んだ。
当時日本のビールはキリンとサッポロの2種類だけだった。キリンはカナダで作られていたから、サッポロだけが日本からのものだった。だから彼はいつもサッポロを注文した。

その店のウエイターやウエイトレスはN君と同年代が多かった。
2回ほど通っただけで、すっかり打ち解けた。
店が跳ねてから店の連中と飲みに出かけた。
ビリヤードをしたり、踊りに出かけた。
そういう店がニュージランドともオーストラリアとも違い、この街にはたくさんあった。
都会だった。これがアメリカのビックシティーだった。


N君は店のオーナー兼板さんに気に入られ、グリーンカードと引き換えに店で働くことを勧められた。
彼は世界旅行の途中であることを理由に断ろうとしたけど、いずれはどこかに落ち着くのだろう?それにここでグリーンカードを取って、その後また旅行続ければいいじゃないか? そういう風にオーナーにくどかれては、まだ二十歳そこそこの彼なんかは簡単に言いくるめられてしまった。

結局彼はその街で暮らすことになった。
ひげも剃った。
それからルームメート募集している物件を探し、引越しをした。

店のカウンターに座ることはなくなり、カウンターの向うのキッチンに入った。(そして後年そのカウンターの一番メインの場所に行くことになる)

でも、そんなに簡単にグリーンカードが取れるはずはなかった。


当時最速で1、2年で取れる人はいたけれど、それは平均ではなく、あくまで特別に順調に行った人の場合で、それにこういうことには必ず何かトラブルはつき物だった。


案の定彼の場合にもトラブルが起こった。その店がつぶれたのだ。

彼を誘ったオーナー兼板さんは失踪し、代わりに日本から新しいオーナーがやってきた。
日本の名の知れた企業が新しいオーナーになった。
そしてまもなく現地のマネージャーが送られてきた。

彼がその街で暮してから2年が過ぎていて、スシシェフになっていた。

グリーンカードはまだ取れていなかったけど、ワーキングパーミットだけは下りていた。
しかしそこからインタビューまでがなかなか進まない情況が続いていた。
そこへこのオーナー交代、最悪グリーンカード取得は一から出直しとなりそうだったし、そもそもここでこのまま働けるかどうかも分からなかった。


案の定、ホールで働いていた学生数人はレイオフされた。理由はまともな英語が話せないからだった。日本人客が圧倒的に多い店だったのだ。
しかし今度のオーナーはお客のターゲットをほぼ100%現地の裕福なアメリカ人を対象にするつもりで店をマネージメントする計画でいた。純日本風な従業員は必要ない、それが指針だった。
そういうわけで、キッチンでも昔から働いていた年配の従業員がレイオフされた。腕の良い頑固な職人だった。


マネージャーはN君を呼び、「君にはこの店の2番手として働いてもらいたい」、と言い、また、グリーンカードも引き続き、当社がスポンサーになるとのオファーを受けた。

悪くはない、でも面白くもない、それが気持ちだった。

彼は前のオーナーと今回辞めさせられた年配の従業員にかわいがられ、そして仕込まれた。


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ニュージーランドやオーストラリアで少しかじったことがある程度の彼に、築地の技術を叩き込んでくれたのはこの二人だった。彼らは腕が良かった。

今度の店はアメリカのジャパニーズレストランを目差すとのことだった。寿司ではなくSUSHI ということだ。

そしてそういう店に職人は不要との本部の判断ということだった。


彼は新しいマネージャーに適当な嘘をついて2ヶ月の休暇をとった。辞めるつもりでいた。

クビになっても構わないし、ここにいられなくなっても構わない。
そもそもこの街にとどまったきっかけの場所がなくなったのだ。

この2年でN君にも横のつながりができていた。
店以外にも日本人コミニュイティーのつながりがいつの間にかできていた。

「今何もしていないんだったら手伝ってよ」誰彼となくそう誘われた。
そしてそう誘われるままに、N君はいくつかの店を掛け持ちヘルプをして働いた。

そういうのは何となく面白かった。

そしてN君はこの街に自分の居場所を少しずつ実感し出した。


マネージャーは寛大な人間だった。
何も理由を聞くことなく彼に休暇を与え、そしてその休暇が終わる少し前頃にN君に連絡をし、何事もなかったかのように、向かい入れた。

復帰後、彼は以前にも増して働いた。そしてカウンター越しの彼の英語の発音も急速にカリフォルニア風へと変化していった。

やがて待ちに待ったグリーンカードのインタビューの知らせが彼の元に来た。
彼は初めてニュージーランドに旅立ってあの日から8年ぶりに日本に向かった。

目指すは在日本米国大使館。


その翌年僕は彼とカリフォルニアで再開した。

グリーンカード取得後、彼はまた二転三転することになる。
その続きはまた次回に。


posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:04 | ホノルル ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年06月19日

その人のきっかけ #2の3

カリフォルニア在住のN君の場合、その3



お礼奉公、、、、、。

アメリカの日本人社会では、今でもそういう習慣が残っている。


無事グリーンカード取れたからといって「はい、お世話になりました、これにて辞めます」というのはやはり日本人感情には馴染まないのか、、。


N君の場合は、結局グリーンカード取れてから3年間その店で働いた。

実際3年間のお礼奉公は、他の人の場合と比べると長い。
だからN君は十分礼を尽くしたといえるだろう。
しかしやはり辞める時には「裏切り者」呼ばわりする人もいた。

グリーンカードを持つもの持たないもの、明日が見えない人たちからすれば、嫉みとか嫉妬とか、そういう感情も湧いてくるのか、、、。

そういえば、同胞のチクリにより強制送還になる率が日本人が一番多いそうです。
そういうのは、確かに、寂しい。

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N君はスカウトされた。

その店の常連としてスシバーに来てN君が握るスシを食べていたチャイニーズアメリカンの実業家がN君を引き抜きに掛かったのだ。

その実業家を入れて3人のパートナーの共同資本で、大規模な新しいモダンアジアン料理のレストランをベイエリアにつくる、ついてはそこの総料理長にN君を、そういうことだ。

大抜擢だ。

広い箱、斬新なインテリアとコンセプト、チャイニーズでもジャパンーズでもない無国籍なモダンアジアン料理に、一流ホテル並みのサービスを取り入れたレストラン。
心は動いて当たり前です。


N君はそこで2年間、ハタから見ていても濃密に生き生きと働いていました。
一人色が違うキャップを被り、ワインレッド色のシェフコートを着て、オープンキッチン内で大声で英語で指示を与え働くN君は実際誇らしかったです。シビレましたね。
N君としても、たとえアメリカで暮していたにしても、実際にはこれが初めてのアメリカ社会、日本人が一人も居ないこの環境の中で、気持ちは高揚していたでしょう。
ましてやそこの現場の責任者ですから、なお更高ぶります。


そこを去るきっかけは、N君を誘ったパートナーの失脚でした。
それとともにN君も更迭されたということです。
アメリカらしいことです。


N君は、店を去ると、郊外に引越し、無職を楽しむことにします。
グリーンカードを取る前、一番最初の店が潰れた時以来の休暇です。久しぶりの休暇です。だからのんびり楽しむことにします。

引っ越した先のアパートメントの一階に小さな日本食レストランがありました。
スシバーに一人、キッチンに一人、ウエイターが昼一人、夜になるともう一人、そういう本当に最低限のお店です。
N君は時々一人でそこでランチを食べます。
ニュージーランドやオーストラリアや、カリフォルニアに来た当初のことをそこで思い出したりもします。そういう懐かしさがあります。市内と違う郊外の街並みのせいかもしれません。
空気がゆったりなのです。
ついこの間までいたアメリカビジネス社会とはまったく違います。

何度目かのランチの時、店前に手書きの募集チラシを見つけ、N君はその店でランチタイムだけ、ウエイター、として働くことになります。

特に履歴書とか書く必要はありません。ソーシャルセキュリティーナンバーがあること、グリーンカードがあること、その証明だけで即採用です。
郊外のこの店にN君の顔を知った人はそうたくさんはいないでしょう。しばらくバレることはなさそうです。

そういうのも悪くない、とN君は楽しそうです。
ウエイターをやってみたかったらしく、そしてやってみると楽しくて仕方ないといった感じです。


半年くらいそうやって過ごし、やがて昔のツテで市内の老舗店からスシシェフとしてお声がかかります。

昔から年上の人にかわいがられていたN君のことです。
人徳というやつです。

そして、昼はなぞのウエイター、夜は老舗のレストランのスシシェフ、そういうスタイルの暮らしが始まりました。

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夜の店は今でも続いています。
かれこれもう10年近いかもしれません。
N君はその店の花板となり、その街の有名なスシシェフとなっています。

ウエイターをしていたレストランではもう働いていませんが、今ではそこのオーナーとも良い友達みたいです。

N君が現場復帰してからも同業者であることはバレることなく、素直な良いウエイターとして働いていたN君です。

ただ、夜も働かないか?とか、キッチンやってみないか?とか誘っても、いつもその場しのぎの曖昧な返事しかしないN君のこと不思議がっていたみたいです。
ランチだけで、どうやっても生活できないだろうに、、そう思っていたみたい。

そしてある日、このオーナーが市内にたまたまやって来て、しかも偶然N君の働いている店に入り、そこでスシを食べ「あっ!」となったということです。
その時も、怒るということではなく、大笑いということみたいでした。



N君は、今でもあの街で働いています。



そういえば、N君、独立とかは考えていないのかい?

気が付かなかったけど、君も僕も、いつの間にかもう四十過ぎているんだぜ。驚きだろう?


それとも、まだ世界旅行の、途中なのかい? 










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2008年06月24日

その人のきっかけ #3

フィラデルフィア在住のNさんの場合

Nさんは女性です。

彼女は25歳で渡米するまでごく当たり前にOLさんをしていた普通の女性です。
(では普通ではない女性とは何ぞや?と訊かれると少し困るのですけど)
現在40ウン歳。
改めて数えてみれば何と時の流れるのは早いこと、そしてそんなにもう経ったんだあ、と感じます。

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ノモとかイチローとか、サニー千葉とか、3代目アイアンシェフのモリモトとか、オノヨーコとか、有名な人のアメリカ生活、サクセスストーリーは確かにすごいです。
でもほとんどの邦人たちはみんな普通の人たちなのです。

その普通の人たちが現在も尚そこで異国で暮しています。
あなたと違うことは唯一つ、「きっかけ」です。

そのほんの些細な「きっかけ」が、全てはそこから始まっているのです。

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Nさんの実家は日本海沿いの歴史ある港町にあります。
両親は二人とも教師という家庭で、忙しい二人に代わり小さい頃から彼女を世話するおばあさんは一人、半分趣味みたいに民宿をやっていました。

Nさんは大学生になり東京で暮らすことになります。
でも休みのたびに帰省し、おばあさんの民宿を3つ年下の妹とともに手伝います。
Nさんの「きっかけ」は、大学生の頃にさかのぼります。その民宿での一人のお客さんとの出会いでした。Aさんといいます。そしてAさんはアメリカ人でした。

Aさんは民宿に泊まり、Nさんに一目ぼれします。
3日の滞在期間、何度も話しかけます。
もちろんNさんにも都合も事情もあります。
物事はいつもうまくいくものではありません。

Aさんは留学生で、東京の大学に通っていました。

Aさんは東京に戻ると、民宿に何度も手紙を書きます。
Nさんから東京の住所を教えてもらうことは出来ませんでした。だから宛先は民宿宛です。
それをおばあさんが東京のNさん宛に送ってよこすのです。
すごい量です。そして拙い文章です。
でもその分シンプルです。
自分の感情を最も単純な単語で表しています。


何度も読むうちに、一度くらいなら、会うことも良いだろう、Nさんの態度は少し軟化します。

Aさんは、物腰柔らかく丁寧で、そして紳士でした。
「紳士たれ!!」、アメリカのママンにそう言われて育ってきた筋金入りです。
車のドアの開け閉めは当然です。彼女を家まで送りに行き、彼女が家のドアを開け中に入りドアを閉めるまでエスコートは終わりません。そういう教育を子供の頃から受けてきたのです。

でも彼女にとってAさんは「魅力的」というフィールドからは大きくはずれていました。
彼女の趣味はジャンポールベルモンドやセルジュゲンズブール、デカタンの危ない香り、アメリカ東部の名門アイビーリーグ出身のAさんはそういう香りはと対極にある人でした。



Aさんが日本に興味を持ったきっかけは空手と合気道でした。
そしてAさんは訪日前に既にその両方の有段者でした。
交換留学の話しが彼の大学に持ち込まれた時、真っ先に手を上げたのはそのためです。
本場で稽古が出来る。
そして東洋の神秘、ジャパンを訪れることができる。

訪日し、しかしそこにあったのは、貧乏生活と孤独でした。

おまけに想像していた神秘なジャパンの美はどこにもありませんでした。

最後まで日本にうまく馴染めなかったAさんですが、結果的にものにしたことは2つありました。
「Nさん」と「日本語」です。
後年NさんはAさんの人生に最もかけがえの無い人となり、そして日本語は彼のキャリアの形勢に大きな力となってくれています。

Aさんはそういう人です。たとえ自らの想像したものがそこになくても、せっかくそこにある一定期間いる以上、ただいたずらに時を過ごすより、せっかくだから何かしらは手に入れよう、と。そういう人なのです。

後年Nさんは言います。
当時たまにAさんのアパートを訪れると、壁に向かい念仏のようにぶつぶつと日本語で何か話していたと。
気持ち悪いかもしれませんが、実際そうでもしなければある年齢に達したものが新しい言葉を覚えることはム難しいのです。

話しは変わりますが、英語を話すコツは、しばし英語だけの環境の中に徹底的に自分を追い込むこと。それに尽きるとよく言われています。
わざわざ海外に語学留学しに行って、外では日本人の友達と遊び、アパートでは日本語のケーブルテレビを見る、そんなことばかりしていては決して言葉は覚えられません。

自分を追い込む、考えてみれば外国ではそういう情況に自分を置きやすいものです。
それをどう生かすか、それはもちろん自分次第ですね。

Aさんの日本留学は2年間で終わります。
帰国です。
東部に戻り、そして大学を卒業します。

その後、Aさんはキャリアの第一歩をカリフォルニアでスタートすることにします。

実はこういうことはアメリカでは珍しいことではありません。
たとえばLAの大学を出て、ニューヨークでキャリアをスタートさせたり、そういう例はよくあることです。
またこの場合出身地はもう関係ありません。
基本的にアメリカ人は親を世襲しません、住む場所も、職業も。

NさんとAさんは文通を続けていました。
そこでAさんの語るカリフォルニアはNさんの興味を引きました。

Aさんが選んだ、サンフランシスコという街はカリフォルニアでもデカタンの香りがある街です。

Aさんは極めて合理的な理由で選択しただけでしたが、Nさんにとってはジャックケルアラックの街であり、フランシスコッポラの街であり、ジャックロンドンの街でした。
それは十分彼女の興味をひくものでした。


唐突ですが質問です。
もしあなたが、当時の彼女と同じくらい若くて、そして仲の良い信頼できる友人が住んでいる外国があったら、そしてその街はあなたの興味を引くには十分過ぎるくらい魅力的な要素があるとしたら、どうしていましたか?

正解です。
やはり彼女もそうしました。


でも、決断するまでにはかなり悩んだようです。

彼女はもう直ぐ24歳が終わろうとしていた3月、勤めていた会社に辞表を出します。
結果的に後年NさんとAさんは結婚することになるのですが、本当にその当時はそういうことはまったく考えていなかったそうです。
ただ行きたい、彼にも会いたいが、それ以上にあの街に行ってみたい、Aさんには申し訳ないが、当時はそういう気持ちだったということでした。

彼女の両親は猛反対でしたが、それを彼女の妹とおばあさんが説得してくれたようです。

そう決まれば、さて準備です。
まずはビザを取ることにします。
アメリカ市民のフィアンセ用にKビザというのもありますが、前にも言いましたが結婚は考えていなかったので、当然これも初めから考えていませんでした。

ですから学生ビザをターゲットにします。I-20を発行してくれる学校を見つけること、そうすればF1ビザを支給してもらえる。
ともかくAさんを頼りそういう情報を送ってもらいます。
当時のNさんは英語にはまったく自信はなかったので、大学というのは選択から外します。
語学学校で、学費が安く、I-20を発行してくれて、あまり日本人が来ない学校。
Nさんの希望通りにAさんはきちんとそれを探してくれました。
アメリカでも有数の多国籍街であるサンフランシスコ、Aさんが探したその学校の生徒の大多数は中国人とロシア人でした。

Nさんはその後貯金をかき集めて銀行で英語の預金証明を作成してもらいます。
学校から送ってもらったI-20と合わせて、それからパスポート原本を加えて管轄の領事館に送ります。
尚この郵送については、Nさんの実家から管轄の領事館まで行くには海を越えなくてはならず、だからこのように郵送によるビザの手続きが認められていたのです。

やがてビザのスタンプの付いたパスポートが彼女の元に無事届きます。見事F1ビザ取得です。

あとは最後の手続き、両替です。
Nさんはトラベラーズチェックに全財産を替えることにしました。
後年これについては後悔しているみたいでした。
何しろ、確かに手数料の面では良かったが、とにかく手間が掛かりすぎる、現地で口座を作る際、膨大な枚数のチェックにサインをしなくてはならず、苦労したということです。


ともかく、Nさんはアメリカに旅立つことになります。

Nさんの「きっかけ」も、大抵の人と同じ様にやはり偶然でした。

しかし今も尚そこで暮しています。

異国ですから苦労は当然です。
言葉とか法律の保護とか、その国の人間なら初めから当然のように備わっているものがまったくないのです。

それでもその地で暮らすというのは、何か理由があるのです。
なんだかんだ言っても、やはり「そこにいて楽しい」、それに尽きるような気がします。

25歳になりました。
Nさんのサンフランシスコ生活がスタートします。
苦労もあり、でも楽しい生活です。


余談ですが、地元に暮す日本人はサンフランシスコのことをサンフランと呼びます。それからベイエリアに住んでいる人はそのサンフランのことをシティーとも呼びます。

次回はNさんのサンフラン生活編を書きます。



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2008年06月26日

その人のきっかけ #3の2

フィラデルフィア在住のNさんの場合:
<アメリカ人のキャリアについてと英語の覚え方編>


その頃Aさんは転職し2つ目のホテルでマネージャーとして働いていました。
サンフランで暮らし間もなく3年目になろうとした時です。
Nさんはとうとうアメリカにやって来ました。


話しは変わりますが、十数年前まで総合職とか一般職とか、ありましたよね。今で言うと正社員と派遣といった構図でしょうか。
この自由の国であるはずのアメリカ、そしてアメリカンドリームの国であるはずの場所で、実は日本のそれよりももっと高く超えられない職種の壁があるのです。

たとえばAさんは転職する際、1つ目のホテルでも、この2つ目のホテルでもマネージャーとして入社しています。
つまり初めから幹部として就職です。そして実はそれがアメリカ流なのです。
Aさんは大学でホテルマンとしての学位を取得しています。
ですから新人でありながら初めての職場から最初から幹部職として採用され、日本で言ういわゆる雑巾がけを経験することはありません。それはちょうど士官学校を卒業した若者が初めから仕官として採用されることに似ています。
つまりAさんも新人仕官も歩兵をすることは金輪際ないのです。

例えばアメリカの銀行でもそうです。
あの窓口業務をしてくれるテラーの人たち、あの人たちは今後何年そこで働いていてもそれ以上のキャリアの階段を上ることはありません。
それはテラーという職種に就いた人たちであり、彼らはマネージャーでも、ましてはバンカーという職業に就いたわけではないからです。
一言で言うと、アメリカの銀行では同じ銀行内でまったく違う職種の人が混在しているということなのです。

しかし日本ではたとえ幹部候補として期待している行員にも窓口業務をさせることもあるでしょうし、日本のホテルのベルボーイは数年後にフロントマネージャーになっていることもあるでしょう。

日本ではその会社に就職し、アメリカではその職業に就くのです。

見方を変えれば、全員が出世レースに強制参加しなくてはいけない日本に比べたら、気楽にやりたい人は気楽な道を選択できる、そう考えることも出来ます。

そしてアメリカのベルボーイだって、もしキャリアの階段を上ることを望めば、チャンスはあるのです。
つまり必要な学位を取ればいいことですし、もしそれ以上を望めば更にMBAでも取って今度は経営者としてのキャリアの道をスタートする、そうすればいいだけです。

更に日本では年齢というものが大きなネックで、なかなかやり直しができないのが現実ですが、しかしアメリカでは歳はまったく関係ありません。
第一履歴書に年齢を書かせること自体禁止されています。さらには人種差別を防ぐため写真も貼りません。あらゆる差別は許されないのです。

それからこれは余談ですが、アメリカではたとえ自己破産した人でも、会社を潰した人でも、何度でもやり直すことができるようなシステムになっています。敗者復活戦が容易なのです。
そういう意味ではやはりアメリカは自由の国で、チャンスの国なのです。
そして寛容なのです。
トータルでみれば公平で平等な社会なのです。

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サンフランでのAさんとNさんの同居生活が始まりました。
結婚したわけではないので、Nさんは当然家賃を半分負担することにします。生活費についてもそうです。Nさんはそういう性格でした。

Nさんは午前中英語学校に通います。
ムニバスの定期を買い、毎朝クレメントストリートからカリフォルニア1番のバスに乗ります。
学校にはビギニングとインターミデアとアドバンスと、クラスは3クラスあります。
Nさんは初日テストを受け最初インターミデアのクラスに振り分けられましたが、たった2日でビギニングのクラスに入り直すことになります。
つまり単語力はあり読解力はそこそこあるのですが、いざ授業となると先生の話も生徒の言葉もうまく聞き取れなかったからです。

授業は午前中だけです。
午後からは働きに行く人が多かったようです。
当時はまだ学生でも働けたのです。
働いている人たちの多くは、中国から来た生徒たちです。
経済的な理由で家族ぐるみで渡ってきたという人たちが多かったようです。
だから彼らを単純に「留学生」という言葉で言い表すことなどできません。

彼らは「新移民」なのです。
まず家族の誰か一人にF-1ビザを取らせる。その学費を一族で協力して作る。
そしてその家族にはF-2ビザがでますから、それで家族全員でアメリカに渡る。

家族の中で誰か一人、グリーンカードを取ってくれれば、そうすればしめたものです。
その家族ということで追随することが出来ます。
そのためには今は家族一丸となり協力です。
決して大袈裟ではなく、一族の今後が掛かっているのです。

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Nさんはまっすぐ家に帰り、昼食を作り一人で食べます。
貯金だけが頼りです。
これが尽きたらひとまず日本に帰る事になる。
無駄遣いは厳禁です。
(後年二人は結婚するわけですが、Aさんはもちろんですが、Nさんもこの時既にAさんと一緒になりたいと思っていたそうです。でもこの国で自分の力で何にも出来ない自分が、このままずっとAさんのお荷物になるのなら、そのことが一番気がかりで、素直に気持ちを受け入れること、伝えることを決めかねていたのです。)


ともかく英語を覚えることです。
そしてそのためには楽しく覚える方法を見つけることです。
そうNさんは決め、大好きな映画に、午後はマチネに出かけることが多かったようです。

マチネ、アメリカにはそういうシステムがあります。
平日の昼間は映画が半額なのです。

実際、映画はとてもよい英語の勉強になります。
よっぽど難解な映画でもない限り、人種のルツボのアメリカでは、映画に使われる言葉は大多数の人が理解可能な言葉を使用するように作られています。
日本では信じられにくいことですが、この移民の多い国では皆が同じ英語力レベルではありません。
そしてそういう人にでも映画館に来てもらわなければ興行成績は上位にならないのです。
だから興行成績1位になる映画ということはすなわち全米で暮らす全て人種が理解できるだろう易しい言葉で語られている映画ということでもあるのです。

ところでアーノルドシュワルツネッカーはオーストリア人です。
ですからデビュー間もない頃の彼の英語の発音は全米で暮らす全ての人種の理解を得るには不十分でした。
だから彼の初期の映画は極端にセリフを少なくしていますし、特には発音の難しい単語は彼のシナリオには元々ありません。
結果子供からお年寄りまで、外国人から留学生まで分かる言葉、単語を使った映画となったのです。


しかし誰にでも好みはありまして、Nさんはシュワルツネッカーや、同じ様に易しい英語を多用して作られているスライ(スタローン)の映画を見ることはありませんでした。

Nさんはアメリカに住んでいながら、フランス映画やイタリア映画を好んで見ていました。(まったく、どこが英語の勉強ですか?)
だから初めの頃は外国映画に付いている、英語の字幕を素早く読むことに追われて、一本の映画を見た後はもうぐったり、そういうことらしかったようです。


他のNさんのテリトリーは図書館でした。
バロックやロココ調の建築物の多いサンフランでは、こういうパブリックな建物もそういう様式が多いです。
しかも100年ものの建物です。
散歩の楽しい街です。(ただしダウンタウンの散歩にはご注意を、サンフランは坂の街でもあるのです)

吹き抜けの回り廊下に無造作に置かれた年代物のロココ調のイスに腰掛け、彼女は絵本と詩の本をたくさん読みます。元々読書は大好きです。

言葉を覚える場合、人にはタイプがあるようです。
Nさんは完全な文字型の人のようです。
だから今でも“話すこと”よりも“書いたり読んだりすること”が得意みたいです。
でもそれは英語だからということではなく、日本語の場合もそうだったような気がします。

性格ですね。

それに比べて耳で言葉を、「音」として英語を覚えていく人もいます。
後で文章を読んでみて「ああそうか、主語は実はここに隠れていたんだ」、そういう人です。
歌の歌詞はすっかり音で覚えているはずが、あとで歌詞カードを読んで「あれ、そこそういうことだったの?」というのと同じです。

文字派であっても音派であっても、経験的にいえることは、自分が楽しいと感じられる方でやったほうが、覚えがいいということです。
だから逆に「絶対こうしなければ英語を身につけることは出来ない」というように自分を追い込んでいくと、まず覚えられないものです。
何事も楽しければ、その効果は何倍にもなって現れるということです。これは何も英語に限りませんが、、、。

長くなりましたので今日はこの辺にしまして、次回はNさんとAさんの結婚とグリーンカードの申請から取得について、その頃起こったエピソードを添えて書いてみようと思います。

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2008年06月29日

その人のきっかけ #3の3

フィラデルフィア在住のNさん : 4人家族編

結婚式はアメリカ東部のAさんの実家に戻り、日本からはNさんの両親だけを招待して執り行います。

そうです。Nさんはあれから必死で英語の勉強をし、大学に入り直して学位も取得し、、、、、、、、、、、、ということではありません。

甘えることが辛くない、元来人に気を使うNさんが、いくら甘えても何となくAさんにならそれが辛くない、それが結婚の決め手ということでした。


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さあ今度はグリーンカードの申請です。

アメリカ人と結婚したんだから、とても簡単にグリーンカードが取れそうに思われがちですが、なかなかそうはいきません。


5年、6年掛かる人ザラです。
昔そういうタイトルの映画にもなったように、移民の国アメリカでは偽装結婚は多いのです。
祖国では仕事もなく食料もなく、アメリカだけが望み、そうやって渡って来る人、今も絶えることはありません。
Nさんもいろいろなこと、移民局の役人とのインタビューで質問されたそうです。
かなり突っ込んだこと、失礼な質問、たくさんです。
経済的なことは当然、Aさんとの夜の生活のことも聞かれます。
後でAさんが抗議をしたほど失礼な内容もあったようです。

余談ですが、アメリカは不法移民を防ぐ為、こういう厳格な態度で接している反面、恩赦等でいともあっさりグリーンカードを発給することもあります。
「潜っている人出ておいで!出てきたら永住権あげますよ」といって本当にあげてしまうのですから、、、。
大胆というか、太っ腹というか、、ある意味さすがです。(でもやっぱり滅茶苦茶です)

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結婚してからNさんは、英語学校から市で運営しているアダルトスクールのようなところに移ります。
結婚によりグリーンカード取得は未だでも、申請中ということで滞在は合法となりましたので、学生ビザの維持のために高額な英語学校にいる必要がなくなったからです。

(でもこれはあくまで滞在許可だけですので、この間もし日本に帰国したら、ビザがあるわけではありませんので、全ては一からの申請となります。ですからグリーンカード取得までのこの時期は帰国できない数年間として過ごすことになるのです。)

ただ英語だけ習うアダルトスクールは退屈に感じ、Nさんは料理とアートのクラスをとることにします。
何かのついでの英語の勉強ということです。

こういうクラスに入ると一気にクラスメートの顔ぶれが変わります。アメリカ人が多くなるのです。
当然といえば当然ですが、語学学校にアメリカ人は一人もおりません。
ですからある意味、ようやくここで本物のアメリカ英語と触れ合うことになるのです。

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実際のグリーンカードが下りる前、ワーキングパーミッドが先に発行されます。

だからNさんはパートタイムで仕事をすることにします。

サンフランという街には大きなジャパンタウンがあるお陰で、比較的まだ英語がうまくない日本人にもアルバイトを見つけやすい街です。
ジャパンタウンの日系スーパーマーケットの掲示板にはいろんな掲示がしてあります。
ルームメイト募集、物々交換、売ります/買います、ウエイター/ウエイトレス募集、中にはモデル募集という怪しいものもあります。
当時、インターネットのなかった頃はこういう掲示板を利用して、情報を交換し合っていたものです。

さてNさん、レストランから始まり、ベビーシッター、街頭勧誘、掲示板にあるものいろいろやってみます。長続きしたものもあるし、マネージャーとけんかしてその日で辞めてしまった仕事もあります。

Nさんは海外に来て初めて、自己主張をすることも覚えたと言います。

ただアメリカの仕事は交通費は全て自己負担ですから、その日で辞めてしまうと結局赤字、それが何ともシャクではありましたが。


サンフランで3つ目のホテルに転職したNさんは、思いもよらず大規模なリストラに巻き込まれそうになってしまい、その直前に自らその職を辞することにします。

そして東部で大学院に入り直すことを決意します。
これはアメリカでは決して珍しいことではありません。

AさんとNさんは、長らく暮したサンフランシスコに別れを告げ、ニューヨーク州のカナダ寄りにある小さな町に、家族3人で引っ越すことになります。
栗毛の赤ちゃんが一緒です。

「こんな時にお父さん無職よ、大丈夫ですかネー」

Nさんは日本語で、Aさんは英語で育てることにします。
悲壮感は誰にもまったくありません。

それよりもこれからの新しい出会いに心躍ります。

新天地は何年ぶりかの雪景色です。

カリフォルニアにはなかった景色です。
改めてアメリカは広いと感じます。

Aさんは約2年でMBAを無事取得します。
そしてニューヨークのリゾート関連会社にディレクターとして勤務します。

その翌年同業の会社からパートナーとしてスカウトされ、そこのCOOに就任します。


フィラデルフィア、、、。

今AさんとNさんは家族4人でその地で暮しています。

まだまだこれから楽しくなりそうです。
posted by 海外ロングステイ相談室 at 21:21 | ホノルル ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2008年08月27日

在留邦人

約100万人。

海外長期滞在の日本人の数、、、、、随分いるものですね。

他に領事館に届け出をしていない人もきっと多いでしょうから、本当の人数はもっとです。

ともかく今この時も、100万人以上、世界中で本当にたくさんの日本人が散らばって、そして生きているということです。

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つい想像してしまうのは、その「きっかけ」についてです。


どういうきっかけで、その人は海外に出て行ったのか、そしてどうして今も尚海外で暮らし続けているのか、そういうことです。
 


たとえば海外に住んでいる人が書いているブログを読むと、そのドラマの多さ、に驚かされます。

ただでさえ奇跡のドラマ、それが100万人分以上あるということなのでしょうから、改めて驚きです。


中でも、駐在員として海を渡った人以外の在留邦人のドラマは興味深いものがあります。

この人たちの特徴は「必然」ではなく「自発的」に海を渡ったということです。

つまりサポートの数が少ない分、ドラマの数は多くなるということです。
 
今となってはしっかり根をはりたくましく生活している人たち、そういう人たちのドラマ、それは驚くほど常識はずれで、驚くほどのパワーを感じます。

いざ外国で暮し始めると、これはこういうもの、これはこうしなくてはいけない、そういう日常生活の慣習、ビザを含む法律問題、たくさんの障害物が次々に待ったなしにやってきます。
それを「自発的」に海を渡った人は自分で片付けていかねばなりません。(当然です。請われて行ったわけではありません。好きで行ったのですから)

試行錯誤の連続です。形振り構っていられません。

いろいろなドラマを得て、今に至っています。

でも、これはこういうもの、を言葉どおりに受け止めて行動して、そして今現在も無事にその国で暮していけているという人はいないのでは?

断言してもいいですが、常識どおりの行動しか出来なかった人は、今日本で暮しているはずです。

常識とおりの行動では何故か、ゴールは帰国へ、と向かうのです。
 

たとえば、弁護士の言うことはまちまちです。
だからたった一人の弁護士の意見にしがみつく必要はありません。
逆に自分の進む方向に助力を与えてくれる弁護士を探すほうが肝心です。

弁護士の言うことに合わせるのではなく、弁護士があなたの目的に合わせるのです。
そういう弁護士を探すのです。


誰もあなたの人生にジャッジを与える権限はありません。
それが出来るのはあなた自身だけです。
その構築に役立つ専門家をドライに探すことです。

大学を出ていないからHビザ取得は難しい、投資額が足りないからEビザ取得は難しい。
社歴が足りないからLビザが取れません。
取れない理由は誰にでも簡単に語れます。


そういう条件でもアプライできる方法があるのかないのか。
あるいはあと何がどれくらいあればその資格があるのか。
そういうことを語れる専門家にしか用はありません。

そういう中で生きていき、そして今もしぶとく生き延びている人たちは、その初めの「ノー」をそのまま受け入れなかった人たちです。
決して諦めなかった人たちなのです。

素直でない人たちと言っているのではありません。
ただその国に住みたい、その気持ちが何より強かった人たちだったのです。


断言しても良いです、本当にその「気持ち」が奇跡を起こすのです。



不思議にそういう時には、誰かと出会っていて、その誰かに助けられていた、そういう経験をすることが多いようです。
そしてそういう人たちの誰しもがそれを体験しているようです。

もちろんそれは奇跡のようなことです。

でもしぶとく海外で生き延びている人たちは誰でもそういう奇跡を体験しています。
 
それはその「気持ち」が引き寄せたものだからです。 


本心からやさしい人は、同時に強い人です。強くなった人だけが、本心からやさしくなれるものだ思います。

その人は、常識に拒絶されそれでもそこに立ち向かおうとしている人にだけ、手を差し伸べることでしょう。

あなたがその人と出会えたこと、これはひとつの奇跡です。
でも間違いなくあなたの「気持ち」がそれを引き寄せたのです。


あなたはしぶとく生き延びるでしょう。
そしてやがてあなたも自然に自発的に次の誰かに手を差し伸べるのだと思います。 

それにしても、100万人以上です。
 

この海の向うにはいったい何があるのでしょう?

何を求めてわざわざ言葉も文化も風習も違う国に向かうのでしょう?


苦労すると分かっているのに、いったい何が引き付けて止まないのでしょう?
 

今日もまた一人、誰かが海を渡ります。
 



posted by 海外ロングステイ相談室 at 20:07 | ホノルル ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2013年09月12日

12回目の9月11日<前篇>

7月に発表された「ハワイの日系スーパーマーケットの、同じく日本食を扱う会員制スーパーマーケットの買収」について、その後をずっと興味深くウエブ新聞やらSNSやらブログやらで様々な情報や感想を読んでいる。


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このハワイの日系スーパーマーケットというのは、日本中でおなじみの大型ディスカウントマーケットのことで、かつてホノルル市の同場所で営業中だった日系スーパーマッーケットのDを買収し2006年からハワイへ進出していた。
(そういえばこの場所はDの前はHという日系スーパーマーケットだったわけで、つまりこの場所は昔から買い物客にとっては名前こそ違えどずっとそこは日本食材等を買うためのスーパーのある場所だったということには何の変わりもない。)


対して今回買収される側の日系の会員制スーパーマーケットというのは、西日本を拠点とする貿易商社からはじまり、1965年にハワイへ進出し、そしてその後は加州へ発展し、現在ではLAを中心に加州に10店舗、そしてハワイには2店舗展開している老舗の日系会員制スーパーマーケットのことだ。


その老舗の米国法人が今世界進出を計画実行中のこの大型ディスカウントマーケットに9月末日をもって買収される。


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尚買収する側の担当者によると「会員制スーパーマーケット側の社員の人事や雇用を含め、経営内容をすぐに変える計画は今のところない」と話しているそうだけど、もちろんそうだろう、すぐにはない、当然だ。

そしてそれは、すぐにはしないが、その時が来たら、買収する側の計画案に基づき変更がされていくということだ。

そうでなくては買収する意味はない。
 


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実はこの会員制スーパーマーケットに勤める社員の中にはかなりの数の日本からの人がいる。

米国法人としての同社がわざわざ日本で募集広告を出し採用した、つまりビザを発行してわざわざ採用した社員が多く働いている、ここはそういうスーパーマーケットだ。


とすれば余計に今回の買収により、今後のことを様々に考える必要のある社員もまた少なくない、ということだろう。 

そのことについてをついつい一番最初に考えてしまう。


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周知のように米国の労働ビザには幾種類かあり、スポンサー(雇用主)がいる限り、更新にほぼ制限がないビザもあれば、更新の回数に制限があるビザもある。

しかしどういう種類の労働ビザであれ、それは非移民ビザであることには変わりなく、つまり移民ビザであるいわゆるグリーンカードのようにそもそも雇用主に左右されずに米国内で自由に職に就くことのできるそれを持たない限り、会社を辞めるということはイコール帰国することを意味するのも、これは海外で働いている人の現実なのだ。


帰国したくなければ、新たにビザをサポートしてくれる雇用主を探すか、あるいはそれまでは石にかじりついても辞めないことだ。


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グリーンカードを取得するためには、実は雇用主からのサポートも不可欠だ。

グリーンカードを取得後にいきなり失業し、すわ米国の失業保険をかすめ取られては、そもそもグリーンカードを発行する米国側のメリットはない。

つまりグリーンカードはあくまで、米国に対して有意義な人に対して、メリットをもたらす人に対して発行されるので、なので、最低限取得後のその人について保障をしてくれる人や法人が必要となる。

それは多くの場合、今労働ビザを発行してもらい働いているその会社がスポンサーとなり、つまりグリーンカード取得後もその人を継続して雇用しますよ、という保証をしてもらうことが必要となる。

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グリーンカードを取得するということは、つまりその後はその会社を離職しても米国内にとどまれることでもある。

そして再就職にあたっては当然新たなビザの取得は不要となる。

つまり自由に働く場所を選べるということになる。

でもこのことはつまり、わざわざグリーンカードを取得させるために保証人やスポンサーにまでなってあげて、でもその後もし即辞められでもしたら、、、つまりグリーンカードを従業員にとらせることには本来雇用主にはメリットは何もない、逆にデメリットの方が多いことなのだ。(手間暇や責任が増える分デメリットは逆に多い)


労働ビザで働く社員にとり、辞めることは即帰国である以上、社員はたいていのことに我慢して働くだろう。

本来はこのままにしておくほうが雇用主にとり合理的なはずだ。

しかし、それでも多くの雇用主は、このデメリットを敢えてしてくれる。


それはきっと何十年前の自分もしてもらったことだから。

海を渡り覚悟をもって異国で必死に生き抜いている同胞の後輩へ、やはりそれはやらずにはいられない。

それと同時に、先輩はきちんと見てくれている。

その後輩が、この国で本当に生きていけるのかどうかを。

その覚悟を感じ取って、だからこそ敢えてデメリットを承知でサポートしてくれるのだ。



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今回買収されたこの会員制スーパーマーケットでも、多くの従業員たちがグリーンカードを申請中で、その後の未来をそれぞれにきっと夢見ているだろう。

おそらく今現在申請中の従業員のそれは買収する会社がスポンサーを引き継ぐのだろうけど(是非そうあって欲しい)、問題はまだ申請していない従業員たち。

きっと今回の件を受け、早晩帰国を考えなくてはならなくなる従業員もいることだろう。
 

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ビザというのは異国で暮らす人にとり非常に大きな問題だ。


米国の場合、非移民ビザである労働ビザはあくまで入口だ。

この国である一定期間一定会社で働くことを許可されたにすぎない、いわば帰国することを前提として発行されたこれはそういうビザなのだ。

だから労働ビザは非移民ビザなのだ。

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しかし永住権(グリーンカード)は違う。

これは米国で住むためのビザ。

だから移民ビザなのだ。


住むためにはお金が必要、だから働くことに制限はないし(米国の場合永住権では一部公務員等にはなれないけど)、そして当然義務としての米国への毎年の納税も伴う。

そもそも目的が違うのだ。 


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さて今回の買収劇を経て、「いやいや、何があっても帰りたくない、このまま住みつくための道をこれからか必死で探してみせる」、あるいは、「良い機会だ。これも何かの運命だ、日本へ帰るか」、と大きな決断を下す従業員もいることだろう。 


こういうことは、ある。

ある日突然、自分の力の及ばないところで、決められたこと、決まったこと、起こったこと、起こってしまったこと、そういうことによりある日突然人生の岐路に立たされることは、ある。

それは何も異国に住む人に限ったことではない。
 


ただ個人的に、僕自身が長く住んだ米国でかつてそういう岐路に立ち、その後帰国したという経験を持つだけに、ついつい彼らのことを過度に想像してしまう。 


何しろ、長く異国で生活していると、その国での生活習慣に慣れていけばいくほど、帰国したときの反動は大きく、母国なのに生きにくく、そして苦しい。

まして他人は、外国人の異国でのカルチャーショックということは比較的理解してくれるだろうけど、帰国者のなる浦島太郎感というのはなかなか想像しにくいだろう。

だからついつい玉手箱を開けたい誘惑に駆られてしまう。


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いたいなら、何が何でもいること。

方法は必ずあるから。

頭では探せなくても、PCでは見つけなくても。

動けば、声かければ、勇気を出せば、必ず方法はあるから。 


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岐路はこれからもあるから、その時には、こうした方が良い、ではなく、こうしたい、の声を素直に感じることだ。


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自身のことを少し語らせてもらうと、僕自身今から10年前に米国でそういう岐路に立たされた。


そして約10年暮らした米国から帰国することを選択した。
 


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そして実は今から5年前にも、選択を迫られることがあった。


僕は今から10年前に帰国して、間もなくハワイ不動産関連の会社に職を得て、その後同種の会社へ転じて、最終的に今個人でハワイロングステイに関わる多種多彩なよろず請負の仕事をしているわけですが、、、、、、しかし今現在の姿は、独立するために前に務めていた会社を辞めた結果ということでは全くなく、会社を辞めたのはもっと別の理由で、それは全くに発展的な希望に満ちたものでなく、その真逆に、、、つまり簡単に言うとうんざりして辞めたのが本当で、当時の責任者とはさんざんやり合って、その結果の判断として辞めたのだ。
だから今しているこの仕事は、僕の中では以前の会社での仕事とまったく延長線では結ばれてはいない。まったくの別モノという意識しかない。

ともかく5年前、僕は以前勤めていた会社を辞めた。

そしてその時にまず考えたのは、もう一度米国へ戻るという選択肢についてだった。

米国の会社に就職し、もう一度米国へ戻る、これをまず考え、さっそく求職をはじめた。

結果1社面接の案内を受け取った。


そしてその米国法人こそが、冒頭の今回買収された側の会員制スーパーマーケットだった。


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書類選考をパスした後、ホノルルにて副社長による面接を受け、その後二次面接は東京でわざわざLAから社長が来日しての面接で、幸いそれらを全てパスし、最終的には研修を兼ねてLAの本社へ2週間の体験入社という連絡をもらい、僕は久しぶりのLAへ飛んだ。   


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長くなりそうなのでこの続きはまた明日以降にします。

アロハ

笹本正明
@海外ロングステイ相談室
http://hawaii-consultant.com/  


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posted by 海外ロングステイ相談室 at 12:24 | ホノルル ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ○あの人のきっかけ

2013年09月23日

12回目の9月11日<後編>

米国に住んでいたころ僕が暮らしていたのは、サンフランシスコとそしてその周辺のベイエリア、シリコンバレーで、LAを訪れたことなど数えるほどしかなかった。

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思い出は、サンフランシスコからの7時間かけての一人ドライブ、それと3,4度訪れたユニバーサルスタジオやディズニーランドくらい、、。 

同じ加州でもこの二つの都市の趣きはまったくに違っていて、アップダウンの多い狭い土地に人が密集しているサンフランと違い、平らな景色の中ひたすらだだっぴろい道路が続きそこをたくさんの車ばかりが駆けていて、でもその半面歩道には人は全く歩いていない、そんなLAという街に驚いたことをよく覚えている。


ためしに僕も車をおり、周囲を散歩してみたけど、歩けど歩けど景色は変わらず、たった1ブロックがひたすら遠く、その上の直射日光で、というほとんど悪態だらけの記憶しかない。


もしあなたが散歩好きならサンフランへ是非。

歩いて街を散策、じんわりじんわりその雰囲気を味わってみる、こういうのが実に楽しい街です。年中涼しいしね。

コッポラが通ったノースビーチのカフェでドピオを飲んで、ジャック・ケルアック通りを歩き古本屋を冷やかし、ブロードウエイを過ぎ、全米一のチャイナタウンの熱気をくぐり、再開発のサウスオブマーケットへ、、で、ここまで全部歩きでも十分いける。

もし疲れたら気軽にケーブルカーでもムニバスでも使えばいいし、あるいはその辺のビクトリアン建築の家の階段に腰かけ通る人の姿を眺めたり、坂下の景色を眺めているのもよい、、、。
 

雰囲気のあるしっとりとした街です。

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一方LAに行くなら車は欠かせない。

車に乗ってあなたは日本では決して味わえない壮大さを味わえるでしょう。

その様はまさに「ザ・カリフォルニア」

広―いLA郡は、SFの近未来都市そのままに、郡そのもの丸ごとがテーマパークさながらに、ダイナミックな観光を味わうことができるでしょう。
  



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さてさて、そんなLAに数年振りに、でも今回はもちろんバケーションではなく、これからの将来この街で暮らすだろう為の、そういう研修のための滞在。

ホノルル発LA行きのハワイアンに乗り込み、夜遅くにLAへ間もなく到着する。

かなり久しぶりなはずだったけど、やはり眼下に広がるオレンジ色の明かりたちは、それは紛れもない、懐かしく何度も身もだえた、帰国してこの5年の間、決してずっと忘れたことのなかったアメリカの景色そのもの。


「帰ってきたんだ。」


心からそう叫びたくなる衝動を何度何度もかみしめて、じっとそのオレンジ色を眺めて着陸の時を待つ。


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わずか2週間の研修期間ではあったけど、その間心が解放されていて、充足感を味わっていて、そして驚くほど、あっけなくすんなりと周りの環境や人たちに馴染んでいたと思う。
 


大げさに言うとLAの空港に到着したその瞬間から既に、僕にとりその空間は異国ではなく、逆に安堵感すら感じていたんだと思う。


翌朝からの研修で、次々に初めて出会う人たちとの対話も、初めてという緊張感ではなく、懐かしいという感慨というか、相通じるものというか、そういうその場所その地域のもつ独自の物差し、言葉、感覚が、すんなり入ってくるという、帰属感のようなものを、きっと僕は感じ味わっていたと思う。 


これこれ、この感じ。

この人たち。帰ってきたんだ。


自分の場所に、やっと帰ってきたんだ、帰ってこれたんだあ、とそう素直にそう感じ、嬉しくてたまらなかった、確かにその時そう感じていた。



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実はこの2週間のLA研修に至るまでは、最初の履歴書送付から数えるとゆうに1年の時がかかっていた。


それはつまり以前勤めていた会社を辞めてからこのLA研修までの間まで、まるまる1年定職に就かないでいたということでもある。
 

会社を辞めて、でも僕の場合は、海外の仕事限定で仕事を探していたので、そうそう毎日そういう種類の求人があるわけでもなかったし、仮にあっても簡単に面接までこぎつけられるわけでも当然なく、送った履歴書の数とほぼ同じだけ不採用通知を受け取っていたという数ケ月だった。

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ただ時間だけはたっぷりあったので、求職しながら、傍らで簡単なホームページを開設してみた。

実はこれが今も続いている「海外ロングステイ相談室」です。


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本当はこの「海外ロングステイ相談室」という名称へ変更する前に、実はまだ会社に勤めている時から、ハワイロングステイに関するブログ記事を書いてはいて、そこへ時折来る質問や困りごとに(その時は現役の会社員だったので無記名無報酬で)アドバイスにのるということをやってはいました。

でもアドバイスだけでは、現実には役には立たない、それだけでは十分ではない、つまり実際の相手の立場に立った手続き、相手に必要なコーディネート、堅実な手配、合理的な選択、コスト負担をできるだけ抑えたアレンジ、専門家との交渉、などなどがアドバイスの後には、そういう適切な処置が必要となるのは必至で、なのでその時に求職中で時間もあるし、第一もう自分はどこの会社員でもないのだから、これも同時進行でやってみようか、とそう思い、今までのホームページやブログの内容を一新し、その名称をも「海外ロングステイ相談室」と変更し、やり始めたとうのがこの相談室の始まりでした。


れでも長いこと、米国に住んでいて、しかも僕の場合は駐在員たちのように請われて行ったのではなくあくまで自分で行きたくて行ったわけで、だから何事も自分で、ビザとか住居とか仕事とかそういうすべてのことに対して自分でサバイバルしていかねばならなかったので、でもきっとそういう自分だったからこそ、相談にのれることもあるかもしれない、役に立つこともあるかもしれない、そう思って作ったのが最初のブログでありホームページだったから、多少の自負もあったし、そして同時にあの時の自分に手を差し伸べてくれたこれは先人達への恩返し、つまり今度はそれを自分がする番だという気持ちもあった。


何より向こうに行きたい住んでみたいという人たちの気持ちは、傲慢かもしれないけど僕が誰よりも痛いほど身悶えするほどに理解しているつもりだし、そして大変なこともたくさんあるけどその向こうのたくさんの充足感もうれしさもよく知っているつもりだから。


そしてそれを捨てて帰ってきた時の虚無感についてもよく知っているので、余計に放っておけない。

やってみれば、たいていのことはできる、たとえば専門家の一人にNGと言われても、別の専門家にはあっけなくOKAY言われることもある。

これも僕が経験で学んだことで、だからこそあきらめないことが大切。


どこかに必ず道はある。


そのための交渉の手段としては、拒絶されるぎりぎり手前のしつこさで。
向こうの人は日本のように全てがお客様は神様でないので、あくまで対等なので、あまりにしつこいお客さんにはあっけなくノー!と言って縁を切ってもきますので、その辺はご注意を。
 



でも基本的に言えることは、やはり、海外生活は覚悟と勇気と、希望ですから。エイエイヤーです。
何とかなると覚悟を決めれば何とかなるものです。


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改めてホームページを開設してみると、反響は大きく、相談事はすごくありました。


以前の匿名でのアドバイスだけのそれのときと比べ物にならないほどに、人はセカンドオピニオンを訊く先を求めていて、そしてまっとうな手続きをしてくれる先を求めていました。 


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騙された。

分らない。

日本と違う。

英語のこと。文化風習のこと。システムのこと。エトセトラエトセトラ。

驚くほどに多種多様の相談ごとが持ち込まれてきました。


海外ロングステイ相談室です。

実際その名の通り相談事を受け付けるためのホームぺージなのですから、ほぼ8割9割がネガティブな内容ばかりが持ち込まれます。
 

しかも問題は
海外のことですから、なかなか相談先はありません。 

更には、とりあえずどこに誰に聞くべきかそれを探すすべすらありません。 


結局誰にも訊けないまま、あげくには騙されたとわかっている大本へ相談してみるしか方法がなかったと言う本末転倒な人のケースすらありました。
 


ようやくネットなどで見つけ相談してみても、紋切り型の親切な抽象的な同情の返答だけだったり、たはまた相談するやいなやいきなりお金のこと、それも決して安くないそれの話がまず先にという返答があったりと、、、。 


それくらい相談先のないのが現実だったようで、だから新生「海外ロングステイ相談室」を開設してからは、ハワイで借りたコンドの配管の不具合の相談から、不動産投資にかかわる相談事、非居住外国人としての手続きの仕方、除草剤の選び方使い方に至るまで、ハワイでのロングステイの中で起こり得るだろうあらゆるケースでの相談事がこの小さな「海外ロングステイ相談室」に日々持ち込まれるようになり、それが今なお続いています。

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楽しい相談事の問い合わせやその実務手配の際には、こちらも輪をかけて楽しくなります。

だから、その依頼事にどうやってプラスアルファを加えようか、どんなサプライズを仕掛けようか、そういうことに頭を使うのは実に楽しいことです。

依頼主の知り得ない、きっと想像してないだろうことを、さりげなく盛り込み、その驚き喜ぶ顔をイメージしながら、そしてその目論見が合致して、本当に喜んでもらえたなら、これこそがこうして仕事をしていることの醍醐味です。 



一方では、厳しい悩み事お困りごとの相談の時はどうしてもこちらも気持ちが引きずられてしまいます。

ともかく一人一人違う一つ一つ違う案件なので、「聞く」ということが何より大切で、そこからしかこの仕事は始まりませんので、だからその分ネガティブな相談事が続いた週は、僕自身の知らずに食欲が落ちていますし人相も変わってしまっています。


海外ロングステイの場合、その多くは海外不動産の売買が絡みます。

なのでその悩みというのは大きなお金の損害に通じるので、場合によってはその人のその後の人生そのものを大きく左右します。

こちらもその覚悟でその負のエネルギーに全身で対峙しなくては問題の解決はできません。



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「海外ロングステイ相談室」は小さな相談室です。 

ボランティア運営ではないですが、しかし現役会社員のころからずっと今なお相談はすべて無料で行っています。

そして相談の後に、実際に所諸手続きが必要となる場合には、手数料を頂戴していますが、しかしこれは依頼された仕事が完了した後でということにしております。  


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長いこと海外ロングステイに関する相談事を扱っていた経験上、不動産価格にしろ手続き価格にしろ、現地での実際の価格と日本での価格の差異があまりに大きいことが、そしてそのことについての問題意識が意外に小さいことがまず問題だと思っています。
 

海外のことだから、知らないことだから、高くても当たり前、、、。 

夢を見させてもらったから、それだけでも良しとして諦める。  

それはやはり辛すぎます。 


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一例では、ハワイ州で一番日本人の不動産所有者の多い島は実はハワイ島です。

ただ不思議なのは、その日本人所有者の所有している不動産は、その多くが土地なのです。

更にはその所有者の大半は自身の土地を見たこともない、ハワイ島にすら行ったこともない不在地主なのです。


ハワイ島のある地区のある分譲地で何百坪何千坪もある生土地が、日本人にとっては驚くほどの安価で現地市場で売られています。

しかもそれは現地市場では有り余るくらいの売り物件がたくさん常にあるという市場です。

そういう土地なのにもかかわらず、たとえば、さもそこが特別な土地区画のように思いこませ、その人だけがその特別な土地を特別に買えるのだと言葉巧みに信じ込ませ、現地市場で売られている価格の何倍もの価格で売るという行為。

シンプルに考えても、たとえば仲介手数料ということで考えて置き換えてみると、それは本当の市場での物件価格のいったい何倍になっているのだろう。

恐ろしくなります。
 

ちなみに比較的高額なタイムシェアの再販における仲介手数料にしても、それでも20%前後くらいです。

普通のハワイ不動産なら(物件価格によりますが)6%から10%くらいなものです。


更には、そもそもこういう手数料というのは、「あらかじめ手数料の%をお客さんへ伝えた上で、それをお客さんが了承した上で契約を結ぶ」のが当然です。これは業者の最低限の情報開示義務でもあります。 

しかし件のハワイ島のある地区の不動産区画の場合、例えば実際の現地の市場価格との差異は、実質手数料で置き換えていうと、600%!!あるいは1000%!!です。

その上この数字の内訳についての開示はまったくないわけで(開示したら誰も買わないからでしょうが)、つまりお客さんにとっては、この提示された(実質手数料600%込みの)金額が本当の物件価格だと信じて購入させられたということです。 


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購入するということは、いずれ売却する時が必ず来ます。 


そしてその時に初めて真実を知ることになります。 


そしてこう思うことでしょう。

自分は●●●万円で購入したのに、そんな安い金額では売ることはできない。 

と。

しかし購入時に未開示のうちに転嫁されたこの600%の手数料は、当然再販時にはそれらを含めて市場に出せるはずがありません。

出したところで売れないのですから。(でも現実にはそういう高額で再販をしようと現地MLS市場にずっと長い間掲示されたままもうすっかり忘れられたままの売り物件はかなりあります。しかもMLS市場に掲示されたままということはつまり専属専任契約の解約もされていないのですから、他の選択肢も行使できません。ずっとそのままです。)
 

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その間に、今度は二次被害三次被害にあってしまう場合もあります。 

亜熱帯の土地は自然豊かです。豊か過ぎて時に木々の成長は日本の所有者の想像の域を遙かに超えてしまう場合もあります。

その場合の責任も義務も当然所有者にあるのですが、そのことを利用した新たな被害の実態もないわけでもありません。


その他二次被害となる危険性があるタイミングは、たとえば
所有者が故人となった時のこと、再販を試みる時、、、、などなどです。


そういう時こそ必ず
セカンドオピニオン、サードオピニオンを得るということを必ずして、もう二度と更なる被害には合わないように自身で十分に気をつけなければなりません。
 

「おまかせ」にだけは絶対にしないこと。 

自らが納得するまでしつこく質問を繰り返すことです。       


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5年前、LAでの研修が終わりになるにつれ、何をかを考えることが多くなりました。
 


自然と溶け込めている場所、自分が自分でいられる場所、やっぱり海外って、やっぱりアメリカってほっとする。
 

そこで生活できているだけで嬉しい。 

やはりここが僕の場所。

   、、、、、だけど。  



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LAでの研修を終え、そのまま6時間のフライトでホノルルへ戻りました。
 

このとき実は「海外ロングステイ相談室」宛に来たある依頼事のためにホノルルに滞在していて、その仕事終わりで向かったLAでしたので。 


ホノルルの借りている家(最初の頃の相談者が所有している別荘で、その後今に至るまでずっと家族のような付き合いをさせてもらっています)に戻り、2週間ぶりにPCを開きメールをチェックします。
 

LA最後の方に再三感じていた「だけど」を、やはりここでまた思います。  

そしてLAで買ってきた濃いピーツコーヒー(サンフランに住んでいた当時からのお気に入りのコーヒー)を淹れて、この2週間分のたまりにたまったメールに一つ一つ返信を打っていきます。

新しい相談者からの相談事に返信を打ち、そしてその後即、ハワイ島の弁護士にもメールを入れ、リアルターからは最新のMLSを取り寄せます。

仕事スタートです。

「だけど」は、もう「やっぱり」に変わっています。    

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人生における岐路は時々ある。 


そしてその時には、こうした方が良い、ではなく、こうしたい、の声を素直に感じること、だと思っています。 


でも僕は10年前の岐路、こうした方が良い、と考えて、帰国することを選びました。  


それから5年が経ち、今度は素直に「こうしたい」と感じて、今なおこの「海外ロングステイ相談室」の仕事をしています。  


個人で運営している小さな相談室です。 

ただその分すべてが、僕自身で決めることができます。 

相談者の担当者は最初から最後までずっと僕です。 

上司の意見で、会社の方針で、やむを得ず本意としないことをすることはありません。 

あなたから話を聞き、そして一緒に考え、一緒にゴールを目指します。  


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そしてこの仕事は、少なからず、自分にとっては、義務とも思ってもいます。
 


使命と言い換えてもいいし、あるいは責任と捉えているのかもしれません。
 

傲慢に聞こえるかも知れませんが、そしてこれは僕にしかできないことだろうと、半ば本気に思っていますし、僕がやらなくてはならないこと、やるべきことだと本心でそう思っています。 



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 「ハワイの日系スーパーマーケットの、同じく日本食を扱う会員制スーパーマーケットの買収」について。 

ウエブで読んでいるハワイの新聞記事で、今回のこの買収の記事を読み、まっ先に浮かんだのは、LAの研修先で会った、そしてとても親切に接してくれた皆の顔々でした。

そしてあの風景と、空気感。

そしてオレンジ色の灯り。 


グリーンカード申請中の従業員たちにはきっとそのままスポンサーが変更しても継続されるかもしれない。 

でもまだ申請されていない従業員たちはどうなるのだろう。 


その思いを味わったことがある一人なだけに、今回そういう従業員の思いを想像せずにはいられない。  


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10年後、20年後、30年後、皆の見る景色がどこなのかそれは誰にも分らない。


ただその時どの場所にいてもあきらめずに、それを切り開いていこうと、望む未来へあきらめずに進もうとすることは、ずっとできる。 


今回の買収劇でもし不運にもいったん帰国へとなったとしても、あきらめなければ必ずまたその時が来る。 

その時を引き寄せてみせるという強い気持ちさえもっていたら、必ず引き寄せることができるものだと思う。  

12年前のあの日、僕はあの街にいた。 

そして今はここにいる。 

でもこの想いは変わらない。  

アロハ
笹本正明
@海外ロングステイ相談室
http://hawaii-consultant.com/  
 

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2016年10月16日

ハワイ島出張のお知らせ、そしてこの13年について

最新情報は ↓
ホームページ:http://hawaii-consultant.com/ ←クリック

10月30日から11月30日までの間、ハワイ島パホア→オアフ島ホノルルというように移動滞在しております。

なお滞在期間中は日本の固定電話も携帯電話も通じませんので、その間はハワイの携帯電話(808)375-2440宛に国際電話をかけていただくか、いつものように aloha@hawaii-consultant.com 宛にEメールにてご連絡下さい。

また、LINEやSKYPE、もしくはFaceTimeを使った無料通話も可能ですので、最初にIDやアドレスをお知らせいただければ、折り返しこちらからご連絡させて頂きます。

追伸;滞在中には、当ブログやホームページ、あるいはTwitterなどへ現地情報をUPして参ります。

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日本へ帰国して今年で13年が経つ。

正直今では、約10年暮らしていたサンフランシスコ・ベイエリアは、もうとても遠くに感じている。
というより、別世界、思いも遠い。
帰国してからしばらくの間ずっと抱えていたあの感情は、もうない。
もうすっかり別の感情に変わっている。
感情というより、それはもうただの記憶なのかもしれない。

当然だ。いつまでもそんなややこしい想いのままで、生きていくことなんかできやしない。

想いを抱えていても、新しい生活の中では、嫌が応にも次々に新しいものと出会っていき、そしてまた別の感情を重ねていくのだ。



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記憶は相当に怪しい。
美化して記憶してしまった部分も多々あるだろうし、忘れようとして、今では無理やり忘れたことをすら覚えていない記憶だって少なからずあるだろう。

実際、カリフォルニアはもう遠い。
今でもたまに仕事でLAに行くことはあるけれど、それは「カリフォルニアに戻って来たぞ」という安心感ではなくて、お上りさんとしての感覚、ドキドキしている、、、。

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ハワイへ行ったり来たりするようになり、13年。
そして一人でこの仕事(海外ロングステイ相談室)を始めて、8年が経つ。

今ではビッグアイランドのヒロやパホア、ホノルルのマキキやカイムキ、にいる時の方が、落ち着く。
特にあの小さなヒロ空港へ着く度に、落ち着いた安心感に包まれている。


年月とは実におもしろい。
あれだけ落ち込んでいたのに、あれだけ焦燥していたのに、サインフランシスコへ戻りたくて戻りたくて、眠れなくて食べられなくて、そういう日々を過ごしていたのに、13年経つとやはり変わる。

僕にとってのサンフランシスコは、今では「青春時代を過ごした大切な思い出の街」という表現で括ることも簡単にできる。(昔は一言で言い表すのにも抵抗感があった。)

実際にあれはまさに青春だったし、でもあの日々はどれだけ今の自分にとり現実感のないものと変わってきたとはいえ、やはり大切な思い出であって、そして何より今の僕の原点であることは間違いない。

そう、確かにあそこから今の僕は始まったのだと思う。

サンフランシスコへ帰りたくて帰りたくて。アメリカのあの景色の中に再び存在したくて、その一部であり続けたくて、僕はずっと「アメリカ」にしがみ付いていたのだから。


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「海外へステイしてみたい人のサポート」
帰国した当時、そういうことを業務としている会社を求人誌などで探して、マレーシアとかオーストラリアとかスペインとかカナダとかそしてハワイとか、そういう会社が少なからずいくつかあったのを覚えている。

これから団塊世代の定年を目前とした海外ロングステイというものに、一般にも興味が持たれていた頃だったのかもしれない。

僕はハワイを扱う会社に入社した。
残念ながらカリフォルニアを扱っている会社は見つけられなかったけど、でも同じアメリカだし、という理由で、そこに入った。

でも入った会社はデタラメな会社だった。
やろうとしていることは素敵なことなのだから、内部が変わればと思ってそれなりに戦ってみたのだけれど、所詮はオーナー社長の会社、嫌ならこちらが出るしかないという結論になった。

そこを出てそのあと別のところでも働いたけど、そこでもまた揉めた。

どうも僕は上の言うことをそのまま聞けない、おかしなことはおかしいとつい言ってしまう、団体生活にそぐわない性格なのだろう。


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お客さんのためと会社のためが、何故違う方向なのかが理解できない。

会社の利益のためにはお客さんの不利益を招いても仕方ない、という考えはどうしてもわからない。

もっと単純で良いのではと思ってしまう。

お客さんを喜ばせることができれば、必ず会社にもそれは跳ね返ってくるのでしょう。

いつも、きれいごとだと、たしなめられた。

会社を存続するために、ここはお客さんには泣いてもらおう、、、、いやいや、そういう会社ならそもそも存続しない方が世のためでしょ。


きれいごとを、こそしましょうよ。

お客さんが喜ぶから、会社が存続できる、それが順序でしょ、やはり。
そこを間違っては、

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だって社員の生活が。

いやいや、そもそも世の中に会社はそこしかないわけではないし、日本でしょ、たくさん求人あるでしょ。

そもそもどうしてお客さんを苦しめる会社にしがみつかなくてはいけないの?
その方が社員だって苦しいでしょ。その家族も嬉しくないでしょう?


そもそも、儲けるために、例えばハワイ島のプナ地区の安い土地を高く売ることを考える、、その発想がどうかしていると最初に気がつくべきでしょ。

だって、お客さんたちには自分では決して見つけられない安い良い場所の土地だったら、そのまま安いままで普通に売ってあげて、まず喜んでもらって、その上でもっと喜んでもらいたくて、腕の良い大工とか庭師とかその他ロングステイに必要なあらゆる素晴らしいものを見つけてきて提供する、だからお客さんはもっと喜ぶ、ということを、何でそういうシンプルなことを目指さなかったのだろう。


1万ドル程度で現地で売られている土地、しかもその程度の金額の土地ということはもちろんリゾート地でもないし、市場が活発な地域でもない。かなりの田舎で、ジャングルの地域の土地、だから安いし、売買も盛んではない。
それを10万ドルで、さも素晴らしい場所・土地であるようにストーリーをつけて販売する。
つまり1万ドルの不動産で9万ドルの手数料ということ。

本当のことを言ったら当たり前だけど誰もそんな土地買うわけないから、秘密にする、嘘をつく、嘘を嘘で塗り固める。

もちろんいつかはバレる。
最後はお客さんは被害者という名前に変わる。

誰も喜ばない。誰も幸せにしない。
社員も、きついでしょう?それで本当に良いの?家族に何ていうの?
幸せですか?


あんなに素敵な場所の仕事をしているのに、幸せを感じられない仕事をしているなんで。

罪悪感でいっぱいになって、ストレスをお金で晴らして、でもその金は不幸にしたお客さんから出たもの、、だからまた罪悪感を増やして、、、それで良いの?


大切なお客さんも、そして自分自身も決して幸せになることのできない仕事なんで、戦うか、あるいは辞めるか、その二つしか選択肢はないと思うけど。

そもそもあなたはそんなことをするためにその会社に入ったのではないはず。
人の不幸を作るために日々生きているのではないはず。
しかもそれがお客さんとあなたの一番大好きなハワイで。そんな皮肉ないでしょう。


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きれいごとを敢えて言わせてもらいます。

それなら、せめて僕がやります。

きれいごとのそのままを僕はやり続けます。


僕のそもそもはハワイではなくサンフランシスコではあったけど、でも行きたい人の思いはこれでもよく理解できるつもり。
そして(エイエイヤーと決心して)行った後、そこで待っている素敵な経験の数々についても、ワクワクするほどに想像できる。

だから、せめて僕がやります。

あんな天国の場所を、悲しみでいっぱいにするなんてどうしたって許せない。

行きたい人たちには、あの素敵な場所で、思いっきりあの嬉しい気持ちを味わってほしい。


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実際、本当にハワイは素晴らしかった。

13年前、最初は、同じアメリカということで、英語を話せるのが嬉しくて、アメリカらしい共通の設備や習慣に再び戻れたことが、ただただ嬉しいということが先だったけど、過ごすうちに日々をゆっくり重ねるうちに、ハワイ生活がただただ心地良くなっていった。

ハワイは瞬時にではなく、その気候と共に、人々と共に、ゆっくりゆっくり、じんわりと良くなっていく。
ゆっくり好きになっていく。
だから何度も来れる場所であって、来る度にまた好きになる場所なんだと思う。

来て何をするのか。
別に何もしない。
でもそれで心地良い場所って、凄いことなんだと思う。

いるだけで、心地良い、ラナイで風を受けてビールを飲む、多分この風も気温も湿度も最新のエアコンでもまだ作れない、そういう絶妙なバランスだから。


「幸せ」という言葉は実にハワイに似合う。

ビーサンに短パンにTシャツ、そしてビールとBBQ。

そよ風が吹けば尚気持ち良い。

人たちが明るく優しい。

貧乏だけど、でも幸いここには高価な革靴もミンクのコートも必要ない。


庭にはフルーツが植わっている。
水も豊富だ。


気持ち良い、心地よい、、、、これで十分でしょう。


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他人の笑顔が見れれば、嬉しいでしょう。

アロハの気持ち、素敵です。

じっくりじっくり、ゆっくりゆっくり、ハワイが好きになっていきます。

10年以上経つけど、なんだろう、ただそれだけで良い、単純で気持ち良い、それもハワイの魅力の一つです。



だから、求める人がいる限り、やります。やり続けます。

それは僕の、ある意味義務だと思うし、そして同時にやはり僕が青春を過ごしたアメリカ生活へのある意味恩返しでもあるし、そしてもっと単純に、あの素敵な体験を貴方にも是非に、とそう思っているのかもしれません。


カリフォルニアは正直もう遠いです。それは確かに寂しいです。

でも今ハワイに出会えました。これはものすごく嬉しいことです。

そしてもちろんそれはサンフランシスコからずっと繋がっている今だということもよく知っています。





「海外ロングステイ相談室」ができて今年で8年になります。

でも最初の頃となーんにも変わってはいません。

いつでもここはあなたのための個人的な相談室です。

今思案中の方、セカンドオピニオンが欲しい人、どうかお気軽に何でも訊いて下さい。

Warmest Aloha,


笹本正明
海外ロングステイ相談室
ホームページ http://hawaii-consultant.com/
Eメール            aloha@hawaii-consultant.com
Twitter              https:twitter.com/hawaii96720


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